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【世界考察37】勉強する意味とは

職業上、勉強する意味を問われることがある。

「勉強って何の意味があるんすか?」
「勉強って何の役に立つんすか?」

数学ってなんの役に立つんすか、の亜流というか、本流のような質問である。私はこんな疑問は1回も抱いたことがない。勉強は楽しいからやるだけだ。意味などない。意味などいらない。役に立つ必要もない。楽しくないならやらなきゃよくねという話である。質問に共感できない。

ただそういう質問がありうることは理解できる。理解と共感は違う。「勉強が楽しい」という考えに一般性がないことは重々理解している。もっと納得出来る回答が業務上必要だ。

一般的な回答としてこんなものか。

・金が稼げるから。金理論
・意味が無くてもやれ。修行理論
・そうだね~たいへんだね~。共感理論

一般的ではあるが、どれも私にはしっくりこない。金が稼げるなら、勉強である必要がない。意味がなくてもやれ、は個人的には好きだが、説得させるのは困難を極める。共感理論はその日その場を収める以上の意味がない。

私の見解はこうだ。

「まず教育は君だけのためにあるものではない。社会全体を良くするためにあるものだ。そして社会を良くするためには一定数お勉強ができる人が必要になる。しかし誰がそのお勉強ができる人なのか、我々はすぐには判別がつかない。だから全員に取り合えずやらせてみて、勉強できるやつを選別しているわけだ。その中で一定数、ついていけないやつも出てくるだろう。そいつは無駄を押し付けられることになるが、誰が勉強できるのかわからないのだから、どうしようもない。遺伝子でそういうのが判断できるようにあれば、無駄もなくなるのかもな。生まれてきてすぐに適性を判断されるような味気ない社会でいいのは知らん。それが当たり前になればなんとも思わないのかもしれない。結局意味は何かと問われれば、社会にとっての意味は、お勉強できるやつを選別するためだと言える。君にとって意味があるかどうかは知らん。そんなことは他人が決めるものじゃない。自分で決めろ」

社会のための選別理論である。これが正しいのかは知らない。しかし、教育は君のためだけにあるもののではない、というのは正しい。教育は単なる慈善事業ではない。社会にとって有益な人間を生み出す営みであることは確かだ。教育にはお勉強できる人間を選抜する側面と、社会で生きていく素養を身につける側面がある。義務教育は後者の面が強いが、高校以降は前者と後者が混在している。生贄理論は高校以降の概念かもしれない。ただ、こんな長話をしたところで、多分聞かないだろう。

余談だが、現代ではわかりにくい(実際はにくいってほどでもない)長話(実際は長いってほどでもない)は嫌われがちで、常に「わかりやすく、短く話せ」原理主義者が登場する。私は「わかりやすく」には一部分賛同するが(情報のそぎ落としがあったとしても、最初の理解段階ではそうするしかないこともある)、短く話せには賛同しない。短く話した言葉は恐ろしいほど頭に残らない。どれだけ明晰で正しい言葉であっても、ある程度時間を共有しないと何も伝わらないのが、情報伝達における現段階の理解である。伝わるというのは頭で理解するということではない。骨身に染みるということだ。短く話せというのは、単なる報告レベルの話でしかない。間違いなく、骨身に染みることはない。

本題に戻る。

上述の回答でも納得しないのであれば「意味なんてないなら、明日から働くか」となる。多分働かないだろう。一体この質問に何の意味があるのか。

勉強ってなんか意味あるんですか?
なんか役に立つんですか?

これは質問ではない。ただの雑談だ。何日も何ヶ月も真面目に考え抜いた末の質問なら、こんな適当な質問にはならない。雑談には雑談として応じるのが、本来的には正しい。

勉強に意味があるとしても、他人の答えに究極の意味はない。自分で考えて経験して答えを出す。それが自分に取っての唯一解となる。自分が宇宙の歴史の中で唯一無二であることを意識すべきだ。しかし勘違いしてはならない。唯一無二は貴重なわけではない。価値があるわけでもない。唯一無二は唯一無二であるだけだ。


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