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【基礎教養部】足の裏に影はあるか? ないか? 哲学随想【書評】

論文チックではない哲学書が書きたい。小学生の頃に書いていたような、素朴な疑問をありのままに書くことをしたい。この本はそのような欲求の元に書かれた本らしい。なので、哲学者が書いた本であるにも関わらず、全体的に随筆のように書かれている。しかし、はっきり言って文章は柔らかくとも、内容はめちゃくちゃに固い。気軽に読めると言っても、気軽に読んで何かが得られるとは考えづらい本である。もちろん、本を読んで何かを得る必要があるかという問題はある。何も得る必要はない。読んで終わりでも、それはそれで読書である。付録のプロレス論は、思いっきり論文チックで毛並みが違っている。全体的に本を読むことも、文章を書くことも好きなんだろうな、と伝わってくるような文章が多いので、好きというより必要だから書いている私にとっては、熱量が違ってやや気圧される内容(というか文章)である。

この本に中核にあるのは維摩経の一説である。本の中では維摩経第八章(入不二法門品)で「不二の法門に入る」、つまり悟りを開くことは如何なることか、主人公の維摩が菩薩達に尋ねた際の議論を引用する。菩薩は各々言ってることが異なり、初めの方の菩薩は二項対立から解放されていることが悟りであると説く。善か悪か。真か偽か。生か死か。あっちかこっちか。人間の思考は暗黙のうちに排中律を含むものらしい。言語の本質は世界を分けることだから、言葉にするという作業が既に排中律を含んでいるのかもしれない。後半の菩薩はまた趣が異なる。前半ではPでもPの否定でもどちらでもないものが不二(悟り)であったはずだが、後半はPもPの否定もどちらでもないものも無作為であることが不二(悟り)である、と変更される。文殊菩薩はそれらを全てひっくり返し、そもそも言葉にすること自体が誤りで、何も言わないのが不二(悟り)であると締める。とにかく言葉は何かを分割(二にする)するものである。言葉にした瞬間、二になるのだから、不二にするには黙るしかない。それが最終解答になる。フィナーレで文殊菩薩は維摩に不二の見解を問い、沈黙した。維摩一黙という言葉もあるようで(初めて知った)、雄弁よりも沈黙の方が価値があるという意味らしい。雄弁は銀、沈黙は金という言葉もある。昔からこの手の格言は多いのだろうか。ファイナルラストで再び文殊菩薩が登場し、沈黙こそが正解だと言った。

筆者はこの引用から、ファイナルラストは蛇足ではないかと言い出す。ない方が綺麗じゃないかと。しかしこのファイナルラストがなければ、維摩が寝ぼけて聞いてなかっただけなのか、積極的に沈黙しているのかわからないということで、やっぱりあったほうがいいという締めになっている。悟りと大ボケは紙一重であるらしい。私がここで思うのは、本当に寝ている状態と悟りに違いがあるのか、という点である。突き詰めて考えると、あまり違いがないように思えるのだが、突き詰め方が足りないのか。作為がない、言葉にしない、世界を分けない。人間が寝ている状態はどれも満たしているように思える。違うのは意図的であるかだけだ。意図的とは何か。

私はエッセイという形式がきつい。文学も詩もキツい。芸術とは無縁に生きているし、文学表現にも縁遠い人間である。随筆のように哲学めいたことを書かれるとなかなか読みづらい。この二つ、あまり親和性が高くないのではないかというのが、今回の発見である。かと言って論文めいたプロレス付録も読みづらい。あまりに分析的である。私はもはや分析という行為にあまり意味を見出せない。私の資質も分析的ではあるものの、では分析が何かを生み出すのかと言えば、分析が生み出すのは分析だけで、私の人生に積極的な寄与があったとも考えづらい。分析して気持ちいというだけである。気持ちよければいいのか。社会において分析が占める割合は大きいのか。

詩といえば唯一吉本隆明の詩だけは読めるのだが、彼が基本的に理系であることと無縁ではない気がしている。

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