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【世界考察24】相対化してはならない人達

多様な視点を身につけよう。多様な価値観を知ろう。多様ななんたらかんたらがどうたらこうたら。多様性はとにかく素晴らしい。万歳。

本当かね。最近、この手の相対化について語っていることが多いが、本気で言っているのか、と問いたい。まさか、絶対にないとは信じているが、(己の都合の良い)多様な視点、(己のメリットとなる)多様な価値観、(己のプラスになる)多様ななんたら、と言う括弧付きではないよな。まさかね。本気で(自分のマイナスとなりうる)多様な価値観も(あまねく人類のためになると信じて)知らなければならない、身に付けなければならない、と言ってるに違いない。そこに利己的な感情などないはずだ。

いずれにせよ、本気で全てを相対化しようと試みているのかどうかは知りようがないが、世の中には価値の相対化なんてやってはならない人達も存在する。エリートと呼ばれる人たちである。エリートは一元化された価値観の中で蠱毒のように醸成されていく何かである。間違っても安易な価値の相対化なんてやってはならない。己の住む世界の価値観を絶対視し、逃げることなく、一回もコケることなく、一度の敗北も許されず、永久に勝ち続けなければならない。大変な職業である。絶対に真似できないという意味で、尊敬の対象ですらある。エリートに限らず、スポーツ選手など、勝ち続けなければならないような職業は、価値の相対化など行ってはならない。価値の相対化が進むと競争すること自体が意味をなさなくなるからだ。貨幣の意味とは何か、社会的成功とは何か、能力主義とは何か、などと考えだしてはならない。考えてるふりをすることは重要かもしれないが。

徹底的な相対化は、社会から少なからず逸脱することを意味する。逆か。社会から少なからず逸脱したものだけが、徹底的な相対化を実行できる、と言った方が正しい。いつもなんどきも言っているが、全ての事象には表と裏、メリットとデメリットが存在する。相対化が完了した暁には、あらゆる欲望から解き放たれ、その代わりに社会性を失うだろう。エリートにはそんなものは必要ない。というか、大体の人には、いや、ほぼ全ての人には必要がない。一体多様性とはなんなのだろうか。私にとっては決して身に付けてはならない何かにしか見えない。みんな解脱したいのだろうか。それとも多様な価値観を知ると言うことは、文字通り知識として頭に入れることだけを指すのか。価値の相対化までは行き着かないのか。それはそれでなんの意味があるのか。

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