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老いた私に起きたこと 三面記事小説


1.未亡人

「奥さん、今日はお刺身がお買い得よ。もう少ししたら半額シール、貼るから、ちょっと待ってて」
女性店員さんが近づいてきて言った。
 このスーパーに来たのは今日で2回目だ。品揃えが豊富で、売り場はきちんと整頓され商品が見やすく並んでいる。以前住んでいた町のスーパーと比べると価格も安い。なにより一人身の私にとってお惣菜の種類が多いことが嬉しい。今日は、お刺身を買うつもりはなかったが、店員さんの言ったことに期待しながらお刺身売り場でシールが貼られるのを待っていた。
「お待たせ」
バッグヤードの扉が開き、店員さんが値引きシールを手に持ち笑顔で言った。
「私のおすすめはこれなのよ」
店員さんは、鯛とマグロが四切れずつ入ったパックを指さして半額シールを貼ってくれた。 
彼女が値引きシールを貼っているのに気付いた他のお客さんが、ぞろぞろとお刺身売り場に集まって来た。
「ほら、早くしないと取られちゃうよ」
そう言いながら店員さんは、私の買い物かごに半額シールが貼られたお刺身一パックを入れた。

「主任さん、これは安くならないの?」
「ねぇ、こっちは?」
「はいはい、ちょっと待って。順番に貼っていくから」
この店員さんは、主任と呼ばれていた。
笑顔で常連客に接している様子は、親切で温かい人柄を感じさせる。
感じのいい店員さんのお蔭で私は久しぶりに笑顔になった。まだ、この町に馴染んでいるとは言えない私にとっては、こんな些細なことでも嬉しく思えた。
 
 二年前、この町に引っ越してきた。
病気の夫が車椅子でしか移動できなくなり、2階建て住居を売って、階段のない小さな平屋へと移り住んだ。

 主人が亡くなって半年が経った。一緒に暮らしてきた主人の思い出の品に囲まれている部屋の中は、一気に殺風景な空間となった。子供がいれば、また違った風に見えたのかもしれない。
ここで私は一人、最後を迎える。夫に先立たれた喪失感は大きかった。

 結婚した時、主人の実家の家業である縫製の仕事を手伝っていた。だが、他国で安く製造する衣料品が主となってゆく。
その焦りから、朝から晩まで必死で働いていたのがたたり、主人は倒れてしまった。
そして、時代の流れとともに廃業せざるを得なくなった。
以来、主人は入退院を繰り返す状態が続いた。私は、そんな主人の介護をしながら働きに出て家計を支えた。
もう一度、縫製の仕事がしたいと言っていた主人の願いは、ずっと叶わなかった。
 主人の両親は家業を廃業してしまったこと、病気の息子の面倒を見させてしまっていることを何度もわびていた。
小さい頃、両親を失くしている私にとって主人の両親は有り難い存在だった。
その両親と夫を一人で見送ったことは、私にとって幸せでもあり自信を持つこともできた。
時々思う。私を見送ってくれる人はいるのだろうかと。

 清掃の仕事が午前中で終わり、午後から駅前のパチンコ店へ立ち寄った。
いつの頃からだろう。打っている時は不安を感じない。主人が入院中の時も今も不安材料がつきまとう自分にとって、パチンコが唯一のストレス発散となっていた。
 いつもの席に着いて打ち始める。三十分くらいすると当たりが来た。
その後も当たりが続き、箱を重ねながら黙々と打ち続けた。今日は大勝だ。
隣のお兄さんが止めて席を離れたと思ったら、すぐに女性が座り打ち始めた。その女性は中々当たらず、イライラして台を叩いていた。
顔を見ると昨日行ったスーパーの主任さんだった。私は軽く会釈をした。


2.再会

「あれ?あなた、昨日うちのスーパーにきてた人よね」
「ええ、あの時はどうも。お刺身、値引きしてもらって。とっても美味しかったです」
「いいのよ」
主任さんは笑顔で言った。そして、私の足元にある山積みの箱をチラッと見た。
なんだか申し訳ない気持ちになった。
こっちは大勝しているのに主任さんの台は全くだ。
「あ~。今月、負けが続いてるわぁ」
主任さんは悔しそうに台に向かって言った。
私は苦笑いしてやり過ごした。
「あなた最近、この町に来たの?」
「はい、二年前に」
「あまり見かけないお客さんだったから」
「今日、スーパーはお休みですか?」
「ええ、シフトでね」
そんな会話をしていると、また私の台に当たりがきた。
このワクワク感。久しぶりだった。心の中は大喜びだが、隣にいる主任さんが負け続けていたので冷静でいるようにした。
「ああ、もう!なんなの?この台!今日はもう終わりだわ」
台を叩いて愚痴を言う主任さんに私は言った。
「よかったら、私の玉分けましょうか?」
「ええ、いいの?じゃぁ、お言葉に甘えて」
主任さんは、少しも遠慮せず積み上げられた玉の入った箱を自分の方へ寄せた。

3.ドアノブのみかん

 一週間後、仕事から帰ると玄関のドアノブに白いビニール袋がぶら下がっていた。中に何かが入っているように膨らんでいる。
近づいて中身を確認すると、鮮やかなオレンジ色のミカンがいくつか入っている。
近所付き合いのない私に果物をくれる人なんていない。
思い当たるのは主任さんしかいなかった。主任さんだとすると、どうして私の住所を知っているのだろう。この前、スーパーでポイントカードを作った時に住所や電話番号を書いたからかしら?でも、お店の人が個人情報を元に家にくるかしら?もしそうだとしたら、そんなことダメなんじゃない。

はっ、今日は約束をしていた金曜日だった。私はパチンコ店へと急いだ。
店内を見回すと、この前と違う列の台に主任さんが座って打っているのが見えた。足元を見ると箱が三つ積まれていた。
「こんにちは」
「ああ、来たのね。これ、一箱返すわ、使って」
主任さんは積まれた箱を一つ持ち上げ私の足元に置いた。
「ありがとうございます」
「この前ね、あれから、大当たりが二回きてさぁ。お蔭で助かったわ」
「今日も調子良いみたいですね」
私はドアノブにあったミカンについて聞くタイミングをうかがっていた。
しばらく談笑をしながら打ち続けるも、なかなか言い出せないでいた。

「ねえ、帰りにお茶かお夕飯でもどう?私がおごるわ」
「え、いやそんないいですよ」
「この前のお礼よ。さぁ、行きましょ!」
 私達は換金してから商店街を歩いた。
夕方の時間だが、まだ日が明るく、商店街は買い物客や電車に乗るため駅に向かう人々が交差するように行きかっていた。
「賑わっていますね」
「私のいきつけの洋食屋さん、もうすぐよ」
洋食屋さんかぁ。なんだか子供の頃を思い出すようで嬉しくなった。
「ここよ」
主任さんが指さしたお店はレンガ造りの小さな門を入って行った先にあった。メニューは、ハンバーグ、エビフライ、オムライスと洋食の定番が並んでいる。
「私はハンバーグにするわ」
主任さんが注文したのはハンバーグとエビフライのセットで値段が1200円だった。
ご馳走すると言われた私はメニューの中で、値段の安い980円の数字を見つけた。オムライスとスープのセットだ。
主任さんが注文したハンバーグは黒い鉄板にのってジュージューと美味しそうな音を立てている。
「美味しいのよ、ここの」
次に、私が注文したオムライスは、ふわふわの卵に赤いケチャップがのせられ美味しそうな湯気を立てている。
一口、口に運んだ瞬間「美味しい」と思わず声がもれた。
「そうでしょ。ここは地元の人しか知らない名店なのよ」
「よくご存じなんですね。この町は長いんですか?」
「そうね、学生の頃から住んでいるから。
どこに誰が住んでいるかってだいたい分かってるわ」
はきはきと大きな声で話すのはスーパーでの接客の賜物なのか、彼女の長所に磨きがかかったのか、いずれにしても人を引き付ける魅力のある人だと思った。
「スーパーの主任さんって、すごいですね」
「あれ、どうして知ってるの」
「お刺身売り場で、お客さん達が言ってたから」
「主任なんて名ばかりよ。実際私はパートで働いているし、たまたま店長から任命されただけで、そんな偉いもんじゃないのよ」
「いえ、でも店長さんから任命されるなんてすごいです。羨ましい」
「そんなこと、ないない」
主任さんは、少し照れながら否定した。
「私、東(あずま)と言います。東 清美です。今頃名乗ってなんですが」
「そうだったわね。私は大宮 陽子と言います。もう主任さんって呼ばないでね」主任さんはクスッと笑いながら言った。
「時々、スーパーに買い物に来るお客さんのところに様子を見にいってるのよ。一人暮らしのおばあさんでね。最近、風邪をこじらせて寝込んでしまって。一人息子は、大手企業に勤めているらしいんだけどさぁ。もう、何年も帰ってきてないらしいのよ。老いた母一人を放っておいて気楽なもんよね。
大事に育てた息子なのに、なんだか寂しいわよね」
「そうですね。息子さんは見に来れないんですか?」
「そうみたい。時間がないとか言って、時々電話がかかってくるだけらしいわよ。全く誰のおかげで大学まで通わせてもらったと思ってるのかしら?結局、学歴社会でしょ。大手企業なんて、そうじゃないと入れないもの」
「ええ。でも、大宮さんって優しいですね」
「やだぁ、そんなことないわよ。ただ、気になるだけよ。いつも来てくれるのに、今日は来ないな、なんて思ったら気になって気になって。
昔はね、お家の前を通って洗濯物が干されているかとか遠くからうかがうだけだったんだけど、最近は玄関のベル押しちゃうことの方が多いわ。
だって、家の中で孤独死とかだったら大変でしょ。明日は我が身だし。
東さんは、ご家族はいらっしゃるの?」
「ずっと主人の介護をしていていました。主人も亡くなって、子供もいないし、身内は誰もいません。介護が終わり一人になって今、ようやく自分の時間が持てるようになりました。その反面、寂しい時もありますが」
「そう、大変だったのね。それで、パチンコしてたの?」
「久しぶりでした。それで大勝してしまって、なんというか高揚感というか」
「わかるわぁ、ね、またこうして時々お茶しましょ。まぁ、あなたが良ければの話だけど」
「ええ、もちろんです。この町に来て、ずっと病院と家の往復ばかりだったので、まだまだ町の事知らないんです」
「私も一人暮らしだから、あなたみたいなお友達ができて心強いわ」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
お店を出て食事のお礼を言った。
「そうそう、東さん、私の事。陽子さんって呼んでね。じゃぁまたね」
大宮さんは反対方向の道路へ歩いていった。
「陽子さん、か」
結局、ドアノブのミカンのことは聞けないままだった。

4.行方不明のおばあさん

 出勤する時、昔ながらの風情のある住宅街を通る。歩きながら、それぞれの家を見るのが好きだ。私にもこんな人生があった。
主人の両親の家で同居していた時だ。
洗濯物を干し、食事を作り、時々庭の手入れをする。昔の良い時を思い出しながら、この道を歩くのが好きだ。
いつものように住宅街を通りぬけようとすると物々しい雰囲気が漂っていた。
 一件の家に立ち入り禁止の黄色いテープがはられ、数人の野次馬がいた。道路にはパトカーが止まっていて警察の人が何か調べているのが見えた。こんな近所で何か事件でもあったのだろうか。少しの間、立ち止まり野次馬に混じって様子を見た。
「ここの一人暮らしの女性、行方不明になってるらしいわよ。毎週、民生員が訪問してたらしいんだけど、呼び鈴鳴らしてもずっと応答がなかったらしくて、つい最近、いないことに気付いたみたい。だけど、あのおばあさん足も不自由だったから、一人で歩いてどこかに行くなんて考えられないわよね。どうしちゃったのかね」
隣にいた野次馬の女性が独り言のように言った。
一度だけ、この家から陽子さんが出てくるのを見た事がある。
一人暮らしのおばあさんって、前に陽子さんが言っていた風邪を引いていたおばあさんのことかしら?

5.着信

 駅に着き、スーパーへお惣菜を買いに行った。あれからしばらく、陽子さんに会っていない。しばらく店内を見回すが姿が見えない。
お休みなのだろうか。
食事の前にお風呂に入った。
「あ~気持ちいい」思わず声が出た。
足を伸ばせるくらい広いお風呂ではないけれど、仕事で疲れた体に温かいお湯が一日の疲れを癒してくれる。
今日はお風呂上りのビールが待っている。
冷蔵庫のドアを開け、缶ビールを取り出した。毎日晩酌する訳じゃないけれど、久しぶりに飲みたい気分だったのでスーパーで一缶購入していた。
ぷしゅ、と音を立てて缶を開け、ごくりと一口飲んだ。
「う~ん、美味しい」
買ってきた里芋の煮っころがしと特売のコロッケをあてにした。
主人が亡くなってから自由を満喫している自分が後ろめたい気がして仏壇にも少しだけビールをお裾分けした。
 私が一人、残されることを主人は心配していた。介護ばかりの人生ですまないと、よく謝っていた。仏壇の前に来ると色々なことを思い出す。
テレビから緑ヶ丘町の事件についてのニュースが聞こえてきた。
“部屋の中から、血痕が確認されました。
警察は女性が事件に巻き込まれた可能性があるとみて捜査をしています“
血痕って、殺人事件なのかしら?
怖くなり、玄関の扉に鍵がかかっているか確認した。
 近所でこんな事件が起こるなんて物騒なことだ。
食器を洗い奥の部屋に布団を敷いて寝る準備をした。静かになるのが怖くてテレビはつけたままだった。
「あ、そうだ充電しなきゃ」
携帯電話をかばんの中から取り出すと、
着信のお知らせランプが青く点滅している。
また、あの番号だ。
夕方から5回、同じ番号から着信があり最後は8時過ぎだった。
こんな時間に電話してくる人なんて誰だろう。心当たりがない。
しかも5回も着信があるなんて、よほどの用事があってのことなのだろうか。
 私の電話番号を知っているのは、会社の人くらいだ。陽子さんとは携帯電話の交換をしていないし心当たりがない。
どこかで書いた個人情報が漏れているのだろうか。
 なかなか寝付けなかったので、冷蔵庫に入っている梅酒の瓶を取り出した。今の季節はお湯で割って温かくして寝床についていたけれど、今日は、そのままコップに入れてストレートでちびちびと飲んだ。
体がだんだん温まってくる。
 テレビを付けたまま寝ていたことは次の日の朝、気付いた。
朝ご飯の支度をする前、携帯電話を見ると、またランプが着いている。
ショートメールが届いている。

“最近、どうしてる?また食事に行きましょうね。陽子”

 昨日からの不審な着信は陽子さんだ。
番号を交換していないのに・・・。


6.豹変


 陽子さんと休みを合わせて買い物に出かけた。この日、陽子さんは近所の人にお遣い物を頼まれているらしく、一つ先の駅前の百貨店前で待ち合わせをした。平日にも関わらず町は人と活気で賑わっている。
 地下のお菓子売り場で用事を済ませ、そのまま食料品売り場へと進んでいった。色とりどりのサラダや華やかなケーキ、肉厚で美味しそうな揚げ物がショーケースに並んでいる。
「きれい!美味しそうですね。こんなにたくさんの種類があると迷ってしまいそう」
私が言うと陽子さんは、
「デパ地下は高いわよ~。あのサラダ、量り売りだから重さをはかってもらうと、こんな少ない量でこんなにするの?って後で驚くのよ」
「でも、買いたくなるような彩りですよね」
「だめよ、清美ちゃん。これだったらうちのスーパーのお惣菜の方が絶対いいって」
確かにそうだ。陽子さんの勤めているスーパーのお惣菜はどれも美味しくて値段も良心的だ。
私は、そのお惣菜の味が好きで陽子さんのお店へ通い始めたのだ。
「私、アカリの煮物好きです」
「ありがとう。また、差し入れするわね」
「いえ、そういう意味じゃなくて・・・」
陽子さんと仲良くなってから、私は食べることにとても満足している。
主人の介護をしていたころは、自分のことはずっと後回しだったからだ。
 
 買い物を済ませて百貨店から表に出ると、まだ明るいが夕方の時間だった。電車に乗って駅に着くころには、空が薄暗くなっていた。
 陽子さんの誘いでお好み焼き店へ入っていった。個室のような空間でゆったりと出来る席があるお店だった。
陽子さんはお使い物の紙袋を椅子の端っこに置いた。ソースが飛び散るのを防ぐため、かばんからビニール袋を取り出し紙袋にかぶせていた。
なんて、段取りのいい人だろう。
お店の人が焼いてくれたお好み焼きがテーブルの鉄板に運ばれてきた。
私達は、いつものように乾杯し熱々のお好み焼きをほおばった。
フリードリンクということもあり、お酒のペースが進んでいた。
 今日はいつもより酔っぱらっていて気分を良くした私達は、陽子さんの行きつけのスナックへと場所を移した。雑居ビルの一階にあるスナックで、小さなドアを開けると店内に三人の男性客がいた。
「陽子ちゃん、いらっしゃい。お友達?」
カウンター越しのママが陽子さんに言った。
「そうよ~、この人いい人なのよ~」
私は、ママの方を見て軽く会釈した。
「おう、陽子ちゃん。久しぶり」
奥にいた男性客の一人は、陽子さんの知り合いのようだった。やはり陽子さんは顔の広い人だ。
 しばらくして陽子さんが言い出した。
「ママ、聞いて。清美ちゃん、ずーっとご主人の介護してたのよ。大変でしょ」
「そう、それは大変ね」
ママは私の方を見て優しく言った。
「私達、偶然パチンコ店で会って。私、負け続きで、清美ちゃんから貰っちゃったのよ。そしたら、その後から2連ちゃんよ、2連ちゃん。すごいでしょ~」
 男性客も笑って聞いていた。
陽子さんの話はまだ続いている。
「今日、陽子ちゃん飲み過ぎてるわね」
ママが言うと男性客の一人が立ち上がって陽子さんの隣に座り、飲みかけのグラスを取り上げた。
「飲み過ぎだよ~。もう、帰った方がいい」
「嫌よ!まだ飲ませてよ!」
 陽子さんは、少し機嫌が悪くなったが、すぐに、にこやかな表情に戻った。
 突然、陽子さんがさっきグラスを取り上げられた知り合いの男性客に絡みだした。
「あんた、嫁さんに逃げられたんでしょ」
「おいおい、絡むなよ~」
「じゃあさ、じゃあさ、清美ちゃんはどう?この子は死ぬまで男の面倒みてくれる人だよ」
「やだ、陽子さん。そんなこと」
私は、恥ずかしくなり陽子さんの頭を軽く叩いた。
「何?あんた今、私の頭、叩いたよね?どういう事?」
初めて聞くどすのきいた声。陽子さんの目はすわっていた。
「あ、いや、ごめんなさい。悪気があったわけじゃないんです」
笑って言った。
「調子乗ってんじゃないの?だいたい、あんた酒癖悪いのよ!嫌だって思ってたのよ!あんたの酒癖の悪さ。あ~痛い、痛い。病院行かないと、ママ近くに病院あったっけ?」
「陽子ちゃん、まぁ落ち着いて」
ママがたしなめてくれたが陽子さんの怒りは収まる気配がない。
「あんた、この前、貸したパチンコ代返してよ!それから、私が差し入れしてる果物とかスーパーの見切り品。返してちょうだい!いつもお礼も言わないで。ほんと、どんな神経してんだかっ」
「えっ」
「あんたに物を与えてくれる人なんて、この町に私くらいでしょうよ」
「本当にごめんなさい。許して」
頭を下げて謝った。私も陽子さんも、今日はお酒が過ぎた。全てお酒がそうさせていると思った。しらふになった明日には、また以前の陽子さんに戻っている。今日は、たまたまこんな風になってしまっただけだ。
 それでも、陽子さんの怒りは終わることがなく、それから人前で私を罵倒し始めた。そしてだんだんと脅し文句を言いはじめた。
「あんた一人なんて消せるのよ。知り合いに頼めばどうにでもなる」
ママが仲裁に入るも一向に落ち着く様子がない。
泥酔している陽子さんがトイレに席を立った時、今のうちに帰るようにママに言われドアまで連れていかれた。
「陽子ちゃんは時々飲んだらこうなるから気にしないで。私が何とかする。
酔いが冷めたらケロッとしてるから」
陽子さんを残して、店の外へ出た私にママが言った。
 あんなに豹変した陽子さんは初めてだった。いつも優しくて親切な陽子さんの顔が怖かった。お酒のせいだけだろうか。それとも何かあって、あんなにお酒を飲んでしまったのだろうか。
どっちにしても私が陽子さんを不機嫌にしてしまったのは間違いない。
 家に帰ってから陽子さんにメールした。
「今日は、本当にごめんなさい」
朝になっても返信はなかった。

7.慰謝料

 

 あれから2週間経った。何度か連絡するものの相変わらず陽子さんへ連絡が取れていない。しばらく仕事を休むと他の店員さんに聞いてから、スーパーアカリへも行っていない。
それからさらに1週間が経ったある日、内容証明郵便が届いた。
中身を確認すると陽子さんの代理人弁護士からだった。
私に頭を叩かれたせいで気分が悪くなり、病院へ診察に行った。精密検査のため、仕事を休み治療費がかかったので、支払って欲しい。百万円の慰謝料を求めると記されていた。 百万円なんて、そんな大金払えるわけがない。もう一度、最初から良く読んだ。何度読んでも百万円と記載されている。
 弁護士の署名入りの内容証明書が届いただけでも驚いているのに百万円なんて。 ショックが大きく、へたへたと座りこみ、しばらく動くことが出来なかった。こういう時、相談する相手がいない自分が情けない。
唯一、仲良くしていた人と言えば陽子さんだ。その陽子さんから百万円を求められているなんて情けない。誰にも相談できないまま、悶々とした日々が続くが何も出来ないままでいた。
 内容証明が届いてから一週間が過ぎようとしていた頃、陽子さんからメールが届いた。近いうちに会いたいという内容だった。

8.弁護士

「陽子さん、これ治療代です。本当にごめんなさい」
手をついて頭を下げ、五万円入れた封筒を陽子さんに渡した。
陽子さんは、封筒の中身を見て言った。
「あんた、馬鹿にしてんの?青木先生が内容証明書を送ったでしょ」
「ええ、でも百万円なんて私、払えなくて」
「よく言うわよ。あなた死んだ旦那の保険金、もらってんでしょ」
「いや、それは」
「言ってたじゃない、旦那の保険金を老後に備えているって。それで、百万円払えるでしょ」
 酔っぱらった時にそんな話をしたことがある。でも、具体的な金額を言ったわけではないし深く話した覚えがない。
「それは、冗談というか。酔っぱらって見栄を張ってしまっただけで」
主人の残してくれたものに手を付けることは絶対にしたくなかった。
しらを切り続ける私に陽子さんが怒鳴り始めた。
「何言ってんのよ、あんた私に暴力をふるったのよ。それに今まで私が貢いだ物だって相当な額よ。返す気なんてないじゃない。誠意が感じられないわ。青木先生、あとはよろしくお願いします」
そういって、陽子さんは、五万円が入った封筒を持ってドアを閉めて出て行った。
 男性は陽子さんの弁護士で青木と名乗った。
「とにかく、私の依頼人がそう言ってますので、ここは示談を成立させた方がよろしいかと思います」
「示談って、百万円払わなければならないんですか?そんな大金、無理です」
「東さん、この示談を拒否するということは次に起こりますのは裁判です。
そうなると厄介だ。あなたも弁護士を雇って裁判を受けて立たなければなりません。それには時間と費用がかかる。百万円ではすみませんよ。仕事をお持ちのあなたが、仕事を休んで裁判所に出向いて行かないといけない日々が続きます。そうなると、これまた大変でしょう。ここは、示談で済ませた方が賢明ですよ」
“裁判”という言葉に驚き言葉も出なくなってしまった。
「東さん、大丈夫ですか?」
青木弁護士の声に反応したものの、頭の中に何も入ってこない。
「先生、私どうすれば・・・・」
「ここは示談ですよ。示談。もちろん分割でも構いません」
「いや、でも、お安くなることはないんですか?実際、治療費はそんなにかかっているものなのでしょうか?」
「う~ん。そうですねぇ・・・。交渉次第ですが」
「先生、お願いします。私と陽子さんはこれまでとても仲良くしてきたんです。だから、私、彼女と揉めたくない。それに、百万円なんて大金、とても支払えません。さっき、渡した五万円でも精一杯なんです。どうか、お願いします。何とかお願いします」
頭を床につけ必死にお願いした。
青木先生は、携帯電話を取り出した。
「ちょっと失礼します」
そう言って外に出て電話を掛けた。私に陽子さんとのやり取りを聞かれたくないのだろう。話声は、ドアの向こうから細切れに聞こえるが何を言っているかまでは分からない。
しばらくして青木弁護士が部屋へ戻ってきた。
「東さん、あなた大宮さんから、これまで色々と金品を受け取っていますよね?こちらは証拠が揃っています。いつでも裁判はできる準備があります。
ですから、示談でどうにかなりませんかぁ。裁判沙汰になったら、噂はすぐに広まってしまいます。あなたこの界隈に住めなくなる。それに、職場にもバレてクビになりかねない」
その後も弁護士の理屈っぽい説明が延々と続いた。
 陽子さんは示談に応じなければ裁判を起こすと言っている。どうしても私に勝ち目はない、そう言われ頷くしかなかった。
「・・・分かりました。少しずつですが分割で支払います」
「そうですかぁ。よかった、あなたが物分かりのいい人で助かりますよ」
 弁護士さんは示談書を作成し、後日届けると言って帰った。
 陽子さんの治療代といっても、そこまでの怪我をさせたと思っていなかった。ただ、あの時、私がふざけて陽子さんの頭を叩いたことが、よほど気に障ったのだろう。
 一緒にパチンコをした時、確かに何度か玉を貰ったり、立替てもらうことはあった。でも、その都度返していたと思う。それに返すと言っても陽子さんが受け取らなかったこともあった。
貢物は、陽子さんの好意だと受け取っていた。それを全部、金額に換算するといくらになるかなんて見当もつかない。
 私は、長年友達と呼べる人もいなかったから人との距離を間違えてしまったのかもしれない。少し度が過ぎたのかもしれない。
友達ができたことに浮かれ、その存在に甘えていたのかもしれない。人の頭を叩くなんてしてはいけないことだった。
 弁護士さんが帰ってからしばらくして、陽子さんに許してほしくて電話をかけたが出てくれなかった。謝罪のメールも何度も送った。
でも、陽子さんからの返信は一切なかった。

9.暴力

 弁護士さんの指示通り、陽子さんへの損害賠償金、百万円を分割で支払うことになった。
毎月一万円、陽子さんの口座へ振り込むことで話はついていた。
家賃や光熱費など毎月必要な支払い以外に
一万円でも家計に響く出費となったが裁判沙汰になるのを避けるため仕方がなかった。もう一度陽子さんに謝って、減額してもらえるよう頼んでみようと思っていた矢先、陽子さんが突然家に来た。
「もっと時給のいいところで働きなさいよ。私が仕事紹介してあげるから」
陽子さんは私に今の会社を辞めるよう言った。
「今の仕事、ようやく慣れたとこだし、嫌です。毎月、支払いますから、それだけは勘弁してください」
「そんな、ちびちび支払われたんじゃ、何年かかるか分からないわ。それに、あんたが死んでしまったら支払いが止まるでしょ。そしたら私、どうすればいいのよ。後遺症が残っているのよ。後遺症を抱えて生きなきゃいけないのよ。嘘だと思うなら医者と弁護士に聞けばいいわよ」
「陽子さん、お願いします。許して下さい。本当にお願いします」
 私は畳の上に土下座して頭を下げて謝った。
「無理よ」
「私、そんなに沢山給料を貰っていないし。それに百万円なんて大金、やっぱり支払えません」
「じゃぁ、裁判起こすしかないわね」
 陽子さんはドスのきいたこえで言った。
「いや、それだけは勘弁してください。ほんと、お願い、お願いします」
畳に頭をこすりつけ何度も何度も懇願した。
次の瞬間、髪を掴まれ顔を上に引っ張りあげられた。
「ひぃ」
驚いて声がもれた。
「分かってんの?あんた!ちんたらしてたら承知しないよ!怖い人、呼ぼうか?」
「止めて、止めて。分かった、分かったから。陽子さんの言うとおりにしますから」
「いいや、分かってないね!私の痛みを全く分かってない!」
 陽子さんは鬼の形相で膝まずく私のわき腹を強く蹴った。
 痛みで体を動かすことが出来ない私を容赦なく蹴り上げ、殴る。
暴力は収まらず、近くにあった箒の柄で肩や背中を何度も叩かれた。
 何時間経ったのだろう。
気が付くと畳の上で倒れたまま気が付いた。陽子さんの姿は見当たらない。
痛みで体を起こすのがやっとだった。

10.奪われたお金

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