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【復刻版】放射能汚染・5年目のチェルノブイリ 【第5回 チェルノブイリ原発へ入域。続く高レベル汚染】

【この記事は復刻電子版です。最新の記事・情報ではありません】1990年に取材。同年11月に集英社・週刊プレイボーイで連載した記事を編集しました。※当時の「白ロシア」は「ベラルーシ」と表記しました。

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直線の道路の行く先には、チェルノブイリ原発の入り口、30キロゾーンがあった。道の両側は深い緑に囲まれているが、ところどころ松の木が枯れている。「放射能の影響でしょう。原発のすぐ近くの森は枯れてしまいましたから」案内役の広報官がこう言ったのを聞きながら、私たちはゾーンの中に入った。
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放射能の雲から人工雨が降った

「あの日はとても素晴らしい天気で、子供たちは外へ遊びに行っていました。メーデーを前にして街は活気に満ちていました」
エリビラ・シトニコワさんは、モスクワ郊外にある小さな展示室の中で、86年4月26日のことを回想していた。

日差しがようやく暖かくなり始めた4月、チェルノブイリ原発が今世紀最大の事故を起こしたのである。その日、シトニコワさんの自宅にチェルノブイリ原発4号機から電話があった。
緊急呼び出しだった。1号機と2号機の副技師長をしていた夫のアナトリー・シトニコワさんは、連絡を受けてすぐにチェルノブイリ原発へ向かった。

「6時間の緊急作業を終えて帰ってきたとき、彼は多量の放射線を浴びていたと思われます」(エリビラ・シトニコワさん)
その後、アナトリーさんは放射線の障害で死亡した。

未亡人となったエリビラさんは、私たちの前に立って、チェルノブイリ原発事故の資料を集めた展示室の説明を続けた。
「これは除染作業が始まったときの放射能防護服です。爆発が起こったときは、まだこの防護服はありませんでした」

爆発の起こった翌日(当日の午後2時という情報もある)1100台のバスがプリピャチ市にやって来て約5万5千人の市民が避難したという。
「どうして移動しなければならないのか人々は知らなかったのです」(エリビラ・シトニコワさん)

ちょうどその頃、ミンスク上空にどこからか飛行機が飛んできた。「黒い雨が降った」といわれる日である。
「その話を最初にしたのは私です。放射能を含んだ雲は、西へ流れて、次の日、キエフ方向(南)からベラルーシのミンスクへ戻ってきました。ベラルーシ市民は飛行機と人工雨を見ました」

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