地球儀

理科の科目分けに対する違和感から始めて【全文公開】

唐突だが、僕が高校時代最も好きだった科目は国語と英語と生物であった。

いまとなっては何の因果か数学なんぞを教えたりしているが、元々数学が好きだったわけではない。むしろ大嫌いだった。しかし、それよりも何よりも、化学が嫌い過ぎて嫌い過ぎて「嫌い死に」寸前であった。

いまなら、何故そんなにも化学が嫌いだったのか、なんとなくその原因はわかる。

高校生の理科という科目の分け方が間違っているのだ。

「理科の科目分け」にイチャモンなんかつけたところでどうにもならないのだが、つい言いたくなってしまう。

基本的に、指導要領では、各科目間で学ぶべき学習の総量に差が出ないように調節されている、はずである。

そういうところがおかしいと思わなくもないが、日本の「受験」は「公正」をうたっているので、どうしょうもない。

また、指導要領を読むと、「豊かな……」とかそういうふんわり系のワードも頻繁に顔を出す。

「確かな」学力を身につける以外に勉強する目的があるのか甚だ疑問である。「豊かさ」は勉強して身に付けるものではない。

しかも、「豊かさ」なんて寝ぼけたことを学習の目的に入れているにもかかわらず、実際の大学入試でそこを一切問わない(問えない)のが現状でもある。

一体これは何なのだろうか。

海外の統計調査との比較ばかり気にするんじゃなくて、もっと本質的に日本の土壌に根ざした「これぞ日本」という教育方針を、しっかりと打ち出して欲しい。

あまりこの話をするとストレスが溜まるので、理科の話に戻そう。

今日の科学が対象とする分野はとてつもなく広い。だから、学習者の負担を減らすために、まず「学ぶ対象を均等な分量に割ってしまう」ということがなされるわけだ。

しかし、僕はこれが決定的に良くないと感じている。

たとえば、かつて、生物学は博物学に近い学問だった。しかし、今となっては、生物学を学ぶということは、博物誌を作ることが目的ではない。分子生物学の研究には、物理化学の知識は必須であるし、数理生物学なんて分野もある。要するに、あらゆる学問から「生物学」だけを単離するなんてことは、本来不可能なのだ。それを、変に割って知識のつながりを断ってしまうので、何だか学ぶ意図が行方不明になり、学習者の思考に変な縛りをかけてしまう。「生物学とはこういうもの」という固定観念を植え付け、領域を越境するという発想自体を削ぎ落としてしまう。

これは本当にとても良くない。

物理、化学、生物(たぶん、地学も)という科目間に、侵されざる決定的違いというのは、ない。

せめて、それぞれの科目をさらに分野ごとにバラして、科目ではなく分野を自由に選択できれば、かなり良い効果を生む気はする。ただ、それは現状では絶対実現しない。なぜそれができないかと言うと、もちろんしかるべき立場の人間にそんな発想が全くないからだが、仮に発想があったとしても、分野ごとにフレックスに選択する制度にテストを対応させるのは非常に面倒であるし、たぶん指導側もそんなものにとても対応できない。

分野ごとにバラバラに選択できるなんてことになると、入試は分野ごとに問題を作るという大変な手間がかかることになり、科目間だけでなくその分野ごとの問題の難易度を揃えるという手間もかかることになる。指導においても、そこまで科目横断的な連続性を保った指導ができる人材は、ほとんどいないだろう。

現実問題として、無理だ。

しかし、「理科」という言葉がもし「科学(サイエンス)」を指しているのであれば、いま、最も学ばねばならない科目すらそこにはない。

「情報科学」だ。

そして、これも高校という枠、縛りで考えると、数学の枠に入れるべきか理科の枠に入れるべきか微妙な立ち位置の科目になってしまう。念のためにいっておくが、プログラミングと情報科学は同義ではない。

結局、「大人の都合」で無理やり人為的に「割った」科目を学ばせるのが問題なのだ。やはり、目的(進路)に応じて各科目の各分野を組み合わせて学ぶことを許容するのが最も合理的な気がする。

古典的な「事の起こり」としての枠組みで割るのではなく、各学習者の目的で割る。

高校生が生物を学ぶのだって、医師を目指すのか、昆虫学者を目指すのか、環境問題の研究がしたいのか、おいしい日本酒が作りたいのか、目的によって重視すべき内容は微妙に異なる。

正直、時間と能力に余裕があれば、高校理科程度のレベル、全部学べば良いとも思う。それが一番簡単な解決策である。しかし、皆が皆そんなに余裕があるわけでもないという意見が大きいらしい。残念である。

そうなってくると、たとえば、将来臨床医を目指す者が植物の生理学を必要以上に詳細に学ぶことは、あまり合理的ではない(無駄ではないにせよ)

所詮高校レベル、義務教育に毛が生えたレベルなのだから、本人の学習意欲が最も高まるような分野選択を科目横断も許して自由に学ばせるような対応こそ、大人が考えるべきことではないだろうか。

そうなってくると、英語、数学、国語といったいわゆる「基礎学力」にかかわる前提科目は、しっかりペーパーテストをすれば良いと思うが、正直、理科(サイエンス)については、論文試験のみで良いのではないかとも感じる。

制限時間内で東大の物理が満点とれる能力と、学部進学後に根気強く物理学の最新理論にたどりつくまでコツコツと学びを継続する能力は、全くの別物だ。

つまり、受験トップレベルの頭の良さなんてものは、見世物的な極めて一面的な頭の良さであって、その先を何ら保証しない。以前、格差についての動画で触れたことがあるが、本来、入試で測定すべきものは、IQの高さではなく意欲の高さである。

学びたいことが自由に学べる環境こそが、学習者の意欲を高める。なぜ、学習者の意欲を折るリスクを冒してまで、学習者に綺麗な円グラフを強要するのか。

現状、高校生が学ぶ「科目の縛り」は、僕には意欲を殺す足枷にしか思えない。

高校生諸君には、制度が悪いとは言え、どうか生まれ持った感性を維持して欲しいと願う。

もちろん、初めから丸いなら、丸いことそれ自体が悪いわけではない。

丸いのも個性。尖っているのも個性。

全てがわかった上で、仕方がない、丸さを重視する「受験」に付き合ってあげよう。

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