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コミュニティ通信[20190827]ファッションとは何か(脳と身体と性)【全文公開】


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コミュニティ内で、ファッションに関する動画リクエストを受けた。時間ができたらやってみようと思うが、ちょっと先になりそうなので、少し思ったことを文章にしておく。しかし、文章を書くとなると、ファッション感覚で読める軽さでは収められないかもしれない。ちょっとしたファッションチェックくらいの軽いものを期待されていることはわかっているのだが、あれこれ考えているうちに堅苦しい評論を書きたくなってしまった。本当に申し訳ない。好きな服のテイストとかの話はまた別に機会を設ける。

さて、唐突ではあるが、僕は決して男女が同じだとは思わない。まず、そこから話をさせてほしい。法律上、根拠なく差別が行われることがないようサポートすることは必要だと思うが、「男女という区別がある」ことは「人間である」ための要件である。しかし、いまや、男女の区別は溶けつつある。性転換手術までしてしまうと、ジェンダーどころかセックスまで自分の意志で変更可能である。ただ、別に性が変更可能であることには反対意見はない。いま「選択している」性を全うするのであれば。

性別を完全に溶かしてしまうと、おそらくファッションという概念も溶けて消える。これは後で説明する。女性差別をなくすということの究極は、女性を出産から解放することだ。互いのDNAを取り出して培養器の中でベビーを育成する。それができれば、女性は子作りの一切の煩わしさから解放されるだろう。それができれば、男同士でも女同士でも性別に関係なく自由に子供が作れるだろう。だが、はたしてそれは「人間」なのだろうか。

文明が技術的にそのレベルまで到達したなら、きっとそんな世の中にはなるだろう。そして、それは同時に、いまの意味での「人類」の滅亡を意味する。そこにいるのは、生殖機能を外部に取り出した、新しい「人類」だ。

僕には人類のそんな姿はあまり想像できない。人が人を好きだと思う気持ち。いや、対象は人だけではないかもしれない。動物が好き、モノが好き、知識が好き、そういう「好き」という気持ちの根源は、エロースである。そして、エロースとは端的に言うなら性欲である。完全に性を溶かしてしまった人類に、性欲は残るのだろうか。何かを「好き」という概念は残るのだろうか。

なぜか性欲というものを敵視する方が多いが、性欲は人間をドライブする重要な要素である。LGBT(あまり一括りにする表現は好きではないが便利なので使わせていただく)というカテゴリに属する人々は、別に性欲が失われているわけではない。自身の身体上の性別に束縛を感じないだけである。しかし、女性の権利を必要以上に主張されている方については、少しあやしく感じる。

あまり声を大にすると面倒なのでこれくらいにしておくが、ホモヘテロ関係なく、性欲があることは人類が人類である為に必要なことだ。性欲を持て余す性犯罪者や風俗ビジネスの実態などを引き合いにアレコレ言う人もいるだろうが、それは話が違う。お金儲けをしたいという欲望を利用した情報商材ビジネスがあるように、人の欲望の周りに何かしらの問題が起きることは仕方ないことである。欲望自体が悪いわけではない。現代の人類における進化の意味は欲望の実現である。

さあ、随分と話が逸れたと思っておられるだろう。僕はいまファッションの話をしている。ファッションの話をするには「性」の話が不可欠であるので、少し前置きをさせていただいた。では、考えてみよう。ファッションとは何だろうか。

ファッションに興味を持っておられるほとんどの皆さんは、言語感覚より映像感覚を重視しておられるだろうから、この質問に言語で答えられない。ファッションに興味を持っておられないほとんどの皆さんは、ファッションの映像感覚を重視しておられないので、ありきたりな定義くらいしか答えられない。どちらにしても、ファッションとは何かを言語的に語れる人は少ないように思う。

人が服装を気にするとしたら、当然他者によく見られたいからである。生涯家から一歩も出ないまま、通販などで購入した服を、ひとり鏡の前で試着して満足する、そんな人がいたとしたら、それは例外中の例外である。服装は見せるためにある。あるいは、見せないためにある。

自分の見せたい自分を見せ、自分の見せたくない自分は見せない。それを制御するために服がある。そういう文脈で語る服装はファッションの範疇にある。しかし、本来、人類が服を着るということを始めたのは、寒さをしのぐなどの機能的な要請からだったはずだ。そして、ファッションに興味を持たない多くの人々は、機能的側面だけを重視する。

ファッションに興味を持つ人と持たない人の違いは何であろうか。たぶん、自分の身体感覚を重視しているかどうかの違いである。機能性さえ満たしていれば良いという発想は、意識こそが自分であり、意識さえ邪魔されなければ良いという発想である。そういう人を脳内人間と呼ぶことにしよう。寒暖に対応できていればどうでも良いという発想。この究極が、いわゆるオタクファッションである。これをファッションというのも逆説的で面白いと思うが、確かに、尖ってはいる。逆に、ファッションに興味を持つ人というのは、自分の身体感覚がかなり強い。物理的な存在としての自分の全てを受け止めてしまうので、それをコントロールする必要性を感じるのだ。こういう人を身体人間と呼ぶことにしよう。

身体人間にとっては、意識よりも先に身体が実在感を持つ。脳内人間には身体などまるで見えていない。だから、ファッションが好きな人とそうでない人が価値観を強く共有することはできない。感覚が違うのだ。

たとえば、高学歴の頭でっかち人間というのはファッションの意味を理解していない人が多い。一生懸命勉強して脳内プラン通りの人生を歩んだ。しかし、他者との関係というのは脳内で完結しないのでうまくいかない。他者との関係とは、身体的な関係(性的な意味だけではないがどう取られても良い)が本質である。外面的と言った方が誤解は少ないだろうか。ともかく、そういう壁にぶち当たると、いままで疎かにしてきた身体的要素を急にどうにかしようと考え始める。たとえば、それが中年男性であったならば、『LEON』のような雑誌が深く刺さる。ひと昔前であれば、もう少し若者向けに様々なマニュアルを与える雑誌が存在した。若者向けのマニュアルは、いまではネットに溶けている。ともかく、脳内人間は身体が理解できないので、マニュアルに頼るしかない。非常に逆説的であるが、脳内人間のファッションにはファッションとしての「中身」がない。

純粋にファッションが大好きという人は、おそらく、美容やアパレル方面の方が多いだろう。もちろん、あくまでも一般論である。そして、そういう身体人間は、どちらかというと言語的な論理思考が強くない人が多い気がする。それはそうである。脳ではなく身体で生きているのだから。そして、それで良いのだ。たぶん、身体人間は脳内人間よりもシンプルに世界を感じている。そして、先ほど表現したファッションの「中身」つまりファッションの本質というのは、そのシンプルさの中にある。

もちろん、現代においては、ファッションというのは流行という意味を含み、それはマーケティングで作られたものである。流行の色まであらかじめ国際的な委員会で予測され、我々は流行を買わされている。それは大局の話である。しかし、最後の最後に個人が服を身にまとう瞬間、その選択がシンプルであればあるほど、他者には格好良く映る。

人は、それを自信と言う。しかし、服を着るということを日常として突き詰めた身体人間にとっては、それは当たり前のことである。呼吸をするのに難しい理屈がいるであろうか。身体人間にとっては、「ただ」服を着ているだけなのだ。

さて、冒頭に散々した「性」の話が全然出てこないじゃないか。申し訳ない。これからその話をする。いま話してきた脳内人間と身体人間におけるそれぞれの「性」は違う。どちらにおいても、「性」とは自身の性欲を解消するための箱庭ではあるが、重心が違う。脳内人間は性欲の解消に重きを置くが、身体人間にとっては箱庭自体に価値がある。行動に重きを置くのか存在に重きを置くのかの違いと言えば伝わるだろうか。

脳内人間にとっては、箱庭は自分の目的のためだけに存在するものであり、壊れたなら作り直せばよいものであるが、身体人間には箱庭は死守すべきものである。ファッションとは箱庭である。脳内人間にはファッションは手段でしかない。しかし、ファッションは本来的には手段ではないのだ。ファッションはそれ自体が中身である。それ自体が全てという意味だ。いま、もしも人類の性別が溶けて、皆、一様な性になったとしよう。性別が消え去っても、なお、我々は自身の身体性を感じて生きていられるだろうか。中性的であるとは、性別があるからこそ存在し得る概念であり、全てが中性化してしまえば、そこに中性は存在しない。

いま、ヘテロセクシャルよりホモセクシャルの方がオシャレな方が多いというのは皮肉である。オシャレであるとは、価値観が尖っているという意味を含むので、いまの時点ではホモセクシャルや中性的な方にオシャレな方が多いのはわかる。しかし、「それ」が全てを埋めつくせば、きっと話は逆転する。

男性と女性がいて、お互いを想う。それが、本来的な意味での「人間」である。女性の権利も何もややこしい話はなく、これは事実として、人間はそう存在している。だから、性別の交換はともかく、性別をなくすことは間違いなく人間をやめることを意味する。男性と女性の「区別」は必要だということだ。ファッションとは自分の身体を自覚し、その身体を他者によく見せたいという欲望である。それは脳で閉じた欲望ではなく、身体的延長を持った欲望である。

だから、おそらく、脳内人間であるフェミニストの方々はファッションの何たるかは理解しない。

男らしい男がいる。女らしい女がいる。それがファッションの根源である。女らしい男や男らしい女というのは、その権利を認めることは別として、根源的ではない。

僕は、いや、俺はいま男として生きている。

だから、俺は男らしく生きる。それこそがファッションである。

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