見出し画像

【表現研】必然性とはアナログな人間性 - 『十三機兵防衛圏』は「人間不在の無機質なパズル」

本記事内にて、ストーリーのネタバレはありませんが、まあまあ過激な評価を下しておりますので、プレイされる予定の方は「絶対に」プレイ後に読まれるよう、忠告しておきます。読んでしまうと、間違いなく中立的な立場でのプレイに影響を受けると思います。

SF好きには、是非ネタバレなしでプレイして感想を教えて欲しい。良い意味悪い意味両方で、強烈なタイトルだ。

世間の評価は、体感、9割神ゲー、1割クソゲー、といったところだろうか。僕は神ゲーともクソゲーとも思わなかった。ただ、制作者の思い上がったゲームデザインにイライラしたのは事実だ。そこをどう感じるかが、評価の分かれ目になっただろう。強いて点数をつけるなら、0点である。それは価値があるない以前に、ゲームとして成立していなかったという意味で、評価対象外ということである。

というわけで、『十三機兵防衛圏』という、少し前に発売されていて気になってはいたが、プレイしていなかったタイトルをプレイした。

これも一応YouTubeにて最後までライブ配信した。最終回は、うっかり配信禁止区間を10秒ちょっと映してしまって、ブロックされてしまった。以後十分に注意すべきと反省した(が、その後、該当箇所のカット処理をYouTube様にお願いして無事にアーカイブは公開し直せた) もっとも、エンディングが配信禁止だったため、観ていただいたところで、結局のところオチは観れない。まあ、僕が予想した通りのオチだったので、配信を全編観ていただければ、観る必要はないかもしれない。

この作品の高評価の原因はプロットにあり、低評価の原因はゲームデザインにある。僕としては、いくらプロットが良くてもゲームとして成立していなければ、そんなものは評価できないし、そもそもプロット自体も古典的なSFのアイデアの焼き直しばかりで、さほど評価できるものとも思えなかった。

なのに、異常に高評価するレビュアーが後を絶たない。なぜか。

ある一定の世代には、いわゆるラノベ的な切り口で世界を見るクセがついているのではないかと思う。ラノベの定義と言い始めるとまたややこしい話に「巻き込まれる」気がするが、一般的定義ではないことを断った上で、僕なりの定義を述べておく。早い話が、ラノベとは設定資料集だ。ラノベにおける「キャラクター」とは、視覚聴覚的データも含めた設定資料の寄せ集めだ。だから、一定の背景を準備して誰と誰がカップリングするかなどまで決めてしまえば、読者は全てを設定資料として丸ごと飲み込んでくれる。つまり、読者は命を吹き込まれた人物像を追うことよりも、キャラクターを属性でラベリングすることに楽しみを見出している。これは、古典的解釈での文学ではあり得ないことだ。

文学は人間を扱う。人間を全体として扱う。一方、ラノベはラベリングされた人間の属性を扱う。人間の全体は扱わない。SNSなどの装置において人間の一面的な属性が増幅されている現代の状況と、まあまあ合致している。デジタルの向こう側に人間をとらえれば、こうなるのは必然である。人間の全体とはアナログであり、人間の一面的な属性とはデジタルということだ。アナログな世界においては、物事が起こるには必然性という一連の流れが要る。だから、文学は一面的資料だけでは成立しない。しかし、デジタルな世界においては、物事が起こるのに必要とされるものはコードだけだ。

『十三機兵防衛圏』という作品は、バラした「コード」を最終的にネタバレしてつなげるまでの「無機質なパズル」である。無機質とは、人間全体が含まれていない、必然性が存在しない、という意味だ。だから、「人間」を求めて作品を楽しむ層からすると、全くの無価値となってしまう。低評価ではない。評価対象外、「無価値」なのだ。

正直に言って、「人間主義者」にとっては、10時間くらいプレイするまでは、このゲームのプレイ体験は苦痛でしかない。プロットの切り刻み方が、制作者の「自己満足」でしかないからだ。10時間もプレイすればちょっとだけ予測がつくようになってきて苦痛は緩和される。しかし、プレイヤーを楽しませることより、ただただプレイヤーを裏切ることだけを目的にプロットが刻まれているのは、完全にプレイヤー視点を欠いている。「記憶の混濁」などをテーマにしたいのであれば、ゲームデザインとして、プレイヤーが「そう」理解できる説明は必要である。つまり、プレイヤーに「体験」を生むという、基本的「設計思想」が、このゲームには存在しない。

なのに、高評価が後を絶たない。恐ろしいことではあるが、既に「人間性」は全体として保存されていない、それは事実なのだろう。人間性など、とっくの昔に「切り刻まれた」のだ。自分好みのグラフィック、音楽、設定、カップリング、それさえあれば、後はチープなプロットであろうが、制作者の自己満足デザインだろうが、一定の水準を超えていればどうでも良いのだ。プロットのチープさは、この視点からはバレない。何故なら、古典的なプロットの数々を、大半の情報の受け手は知らないからだ。

あまりの恐ろしさに震えが止まらないが、これも時代性なのだろうと考えると、僕も「この状況」に適応せねば、旧人類として闇に葬られるのだろう。大きな時代の流れに抗うのは無駄である。しかし、どうやって折り合いをつけていこうか。僕は相当に「融通の利く」方の人間だとは思うが、それでもつらい……。

私の活動にご賛同いただける方、記事を気に入っていただいた方、よろしければサポートいただけますと幸いです。そのお気持ちで活動が広がります。