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1章 independent love song

1.1
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―――  冷たい。
 最初に口から出た言葉はそれだった。
 息を吐くと口元から白い煙がゆらゆらと形を変えながら立ち上る。酷く乾燥した空気の中で指先の皮膚が硬くなっていくのがわかる。冷えきった風が過ぎ去ると、突き刺さるように痛覚が刺激された。アスファルトに削られてしまった小さな枯葉が、かわいた音を立てながら足元を掠める。
 気づくと、私はひとりで細く薄暗い路地に立ち尽くしていた。周囲を確認しても私以外には誰もいない。ビルの薄汚れた壁と苔むした室外機だけが私の横で鎮座し、黙している。退色した蝶の死骸が幾つか吹き溜まりに転がっていて、その中には、朽ちてしまって原型を失い、粉のようになっているものあった。
 これが夢だということが分かる程度には意識は現実に引き寄せられていた。ただ起きたいとは思わず、夢の縁にしがみつくように瞼を抑える感覚だけを強く想像する。
 そこはまるで地の果てのようだった。見える景色の中には何も生きていない。どこを見ても死骸しかなく、生き物の気配は全くないし、雑草すらも生えていない。あまりにもぼやけてしまっている配色の景色に些細な感情の起伏を感じるようなことも無く、色彩は黒と灰色だけが存在しているため、気味の悪い場所にも関わらず心は妙に落ち着いていた。
 足をすすめると腐った果物のような酸味の効いた香りが鼻先に触れた。咳き込みながら思わず、手の甲を鼻に押し当てる。何してんだろう私。言葉が宙を舞うように口から自然と漏れる。しかし、打ちっぱなしの壁の間を薄らと響くだけで、答える人影はどこにもいない。
 時折、路地の中を身体を攫うような分厚い風が吹き込んだ。咄嗟に目を閉じると、砂粒が巻き上げられて、土の匂いが鼻孔をくすぐる。それが口の中にまで入ってしまったのか、苦々しいザラつきが舌先に張り付いて気持ちが悪い。
 風が止み、目を開くとそこには何かがあった。それがなんであるかはわからなかったけれど、しかしそれは確実に私の目にはあった。少なからず夢の中の私はそう認識していた。
 好奇心というよりはそれが自分の欲する大事なもののような気がしてら思わず手を伸ばそうとした。しかし、夢の中では体は思うように動かない。もどかしい。意識はしていても夢の中の私は掴もうとしないどころか、ただその場で立ち尽くしているばかりだった。
 そして、時間が経つにつれて現実の空気が夢の中へと流入し、路地の隙間から薄っすらと光が差し込んでいるのに気づいた。意識が現実へと浮上しかけ、しかし海面を浮き沈みするかのように私の意識はぎりぎりのところで留まる。揺蕩う感覚に浸っていると心地がよく、夢うつつの狭間の中に居たいという意志は強くなった。
 目の前にあるものが一体何であるか、それを必死に見ようとしていると唐突に見えていた世界がぐにゃりと歪んだ。ビルの輪郭は蜘蛛の糸が千切れるように失われ、灰色の景色はより一層白味を帯びていく。
 私が見ていたものは一瞬のうちに朽ちて消えた。そして光の粒子が弾けていくのが見えて、眩しさに強く目を閉じた。
 けたたましく鳴るアラーム音に反応して、否応なしに意識が浮き上がる。反射的に手を伸ばし棚の上にある目覚まし時計を探し当てると叩くようにボタンを押してアラームを消した。おはようございます。口は開いていなかった。意識の中で誰に向かって言う訳でもなく、ただ呟く。癖は怖い。ひとり暮らしだと云うのに、子供の頃からの慣習は大人になった今でも変えられない。誰がいなくてもおはようございますと言わなければ朝を迎えられないのだ。
 緩慢な動きで瞼を開くと、カーテンの隙間から青を滲ませた透明な朝日が床に降りていた。
 時計を見ると針は午前六時のところ。しかし、すでに外では滝のように蝉が鳴いている。蒸し暑さが布団の中へと侵入していて今日も酷い暑さになることを予感させた。
 首をもたげたまま起き上がると、子供用のプールへと足を突っ込んだようにその足取りの重く、自然と口元から溜息が滑り落ちた。ため息をした時は、その分息を吸った方がいいんだよ、幸せを逃さないためにね。そんな言葉を思い出す。意味は無いかもしれないけどと思いつつ、徐ろに背筋を伸ばして深呼吸をする。
 朝の空気は、思ったよりも軽く澄んでいて、肺に勢いよく入り込んだ。モヤモヤしていた胸の裡が剥がれるように、気持ちが微かに晴れていく。
 カーテンを開くと光の粒子が散らばるようにして光が部屋の中へと一気に降り注ぎ、夜の青さは部屋の隅へと後退した。
 暫くすると意識が明瞭としてきて、仕事の用意をしなければと体を廊下へと向ける。何かお腹に入れた方がいいかもしれないとキッチンを確認すると棚にあった食パンが目に入った。けれど、前日の疲れからか目にすると直ぐに食欲が失せた。残業をした翌日はどうしても食欲が湧かなくなる。代わりに水道水をコップに入れて、ひと口飲んだ。水分が血管を通って、身体の脈と共に浸透していく気がした。
 そうして一息ついていると頭に食い込むような鈍い振動音が何処からともなく響いた。直ぐにテーブルへと目をやったがそこにスマホはない。整理整頓も行き届かない雑然としたままの部屋は、何が何処にあるかすぐには分からないほど服などが散乱していて酷い有様をしていた。すっかり肩から脱力し、何処よ、と声が漏れる。音を頼りに暫く探しているとスマホは、忘れ去られ土に埋もれた遺物のように積まれたTシャツの下敷きになっていた。時間もないのに、と独り言を口にしながら画面を確認すると電話の表示と友口裕也の文字。
 やっぱり。
 こんな朝に電話をわざわざかけてくるのは裕也さんくらいだろうとは思っていた。
 苛立ちをか覚えながら、通話という緑色のマークに親指を這わせる。
「もしもし」
 間髪入れずに私から言うと、「もしもし、朝からごめんね」と電話口から裕也さんの穏やかな声がした。相変わらず早朝から明瞭とした口調をしている。きっと自己管理は徹底している人だから朝からきっちりとしているのだろう。私とは違ってしっかりした人だ、と思わず関心してしまう。
「ううん。大丈夫、起きてたから気にしないで。それでどうかしたの?」
「あっそんな急用とかじゃないんだよ。ちょうど繁忙期も終わったことだし、せっかくなら今夜会えないかなって思ってさ。でも、そっちが忙しいなら大丈夫だから」
「ううん、今夜なら大丈夫。今日はそんなに忙しくはならないと思うし」
 それなら良かった、と息をついた彼の声色は嬉しさを隠せていないように嬉々とした感情が滲んでいた。まるで子供みたいに素直な人だなと、小さく笑う。穏やかで大人な雰囲気を漂わせた人だと云うのに、こういうところはやっぱり脇が甘い。けれど、それが可愛らしくて私は好きだった。
「それなら、二十時頃いつものところで待ってて欲しい。迎えに行くから」
「分かった、二十時ね。今日こそは遅れないでね」
 嫌味ぽく私が言うと、電話の向こうではははと乾いた声で苦笑しているのが聞こえる。
「じゃ今夜」
 そう言って裕也さんは電話を切った。切れたスマホの画面には、六時半の表示。出勤時間は七時半過ぎでいい。まだ時間ある。けれど、あれもこれもと考え出すと明らかに足りない。まだ1時間はあるじゃないかと思っていても寝起きの体は思った以上に気だるくて、ひとつひとつの行動はどうしても遅くなる。頭ではわかっていても取り掛かるのに時間がかかってしまうのだ。とりあえず、ご飯は諦めよう。洗面台に向かい、電気をつけると眠た気で目の下に隈の浮かんだ自分の顔が鏡に映っていた。そして眺めながら、奮発して買ったシャネルの化粧水でも使おうかと思った。

 仕事を終えた頃、カバンの中からバイブ音がしてスマホを取り出すと、由紀からLINEが来ていた。アイコンには産まれたての赤ちゃんの真っ赤な顔が写っている。高校の同級生だった由紀が結婚したのが二年前。子供が生まれたと嬉しそうに話していたのが一年前だ。一緒に好きな歌手の話で騒いでいた頃を振り返ると、互いに随分と離れたところに行ってしまった気がする。
 今度旦那さんとこっちに来るからご飯でもという事だったので、時間があればぜひね、とクマが笑顔でOKと言っているスタンプと共に送った。
 LINEの画面からは幸せが溢れてきそうで、私は短く息をつく。
 元々結婚なんて意味ないわ、と言っていたのは由紀の方だった。私はそんな由紀の言葉に首を傾げるばかりで結婚の善悪どころか、結婚自体が夢物語のようでよく分からなかった。けれど結婚した途端、由紀は穏やかな笑みを浮かべて、結婚はいいものよ、とそれまでの言葉が嘘のように口調も変わっていた。着ていたはずの際どい長さのミニスカートはいつの間にやら裾が伸び、色合いもはっきりとした色から穏やかなベージュ等の落ち着いた色彩を好むようになっていて、女から奥さんになっていくのがありありと伝わった。妊娠してからは、あんなに履いていたヒールの高いパンプスはどこかへ消え、スニーカーを多用するようになって母親へと着実に変わっていった。会えば高校の頃のように表情は戻ったものの、けれど顔には歳相応の経験が滲み出ていた。
 夕日に照らされた足元は影が細長く伸びていて、ゆっくりと時間が流れていくような錯覚を覚える。
 まだ約束まで時間がある。近場のデパートのトイレで化粧直しをしていこうとスマホをしまい、レンガ敷きの路面に乾いたヒールの音を立てながら歩き出した。
 幸い、仕事場の傍には大手のデパートがあって、こういう時に困ることは無い。大仰な入口をくぐり、一階の化粧品売り場を眺めているとディオールの新作リップを見つけしまい、思わず手に取ってしまった。私の色素の薄い唇を誤魔化すためにリップは何よりも重要で、良さげだなと思う新作のリップを目にする度に買いたい衝動に駆られる。けれど、決して高くはない給料ではリップ一本でも悩ましい。
 とりあえず、店員に声をかけられる前にそっと陳列し直してその場を後にした。
 トイレに入ると、そそくさと化粧ポーチを取り出す。いくつかの化粧品をその場に広げて丁寧に化粧直しをする。疲れが表れている腫れぼったいまぶたを隠すようにアイシャドウとアイライナーを重ねて、リップも拭き取って塗り直す。汗臭くならないようにと首筋に爽やかな香りのする香水をそっと塗った。気づくと約束の時間まで十分も無くなっていた。焦り、化粧品を仕舞うと忘れ物はないか確認し、そそくさとその場を後にする。
 裕也さんと会う時はいつだって夜だ。お陰で化粧ポーチにはなるべくいいものを、と普段なら家に置いておくような一級品のものばかりをパンパンになるまで詰めてしまう。仕事終わりの疲れきった顔のままでは絶対に会いたくなかった。
 いつもタバコの匂いを纏わせて、闇に溶けてしまうような真っ黒のスーツで裕也さんはやってくる。だからかだろう、裕也さんと会う時は殆ど現実味がなくて、夜なのに白昼夢を見ている感覚に陥ることがあった。
 昨夜の残業が響いているのか、身体は酷く重い。
 仕事がピークを迎えるとストレスで荒れ果ているということもあって、自分の倫理観とか正義感みたいなものから逸脱したくて仕方なくなる。殺人や窃盗のようなことは流石にしないけれど、でも犯罪にならないならなんでもいいから、私は私という着ぐるみから抜け出したくなる。そんな私のことを裕也さんはよく理解してくれていた。私にとって裕也さんはそういった感覚を満たしてくれる存在だ。またその危うい関係を楽しむような価値観を彼自身も持っていた。だからこそ、お互いに余計な愚痴の言い合いとか、欲望の吐露を口にしたりはしない。穏やかに、日常を語り合って抱き合うだけ。
 男遊びなんて不健全と云う友人達は多くいるけれど、付き合うよりもよっぽど気が楽で依存しすぎることも無い、むしろ健全な関係を保っている。
 そもそも、付き合うという労力だけに限らず、離別で揉めるかもしれない関係を結ぶ方がかなりの勇気がいるし、依存し依存されたり、焼きもちを焼くことも心労が絶えない。日々を生きることで精一杯な私にそれを受け止めるだけの許容はなかった。
 だから今のままがいい。会いたくなったら素直に会って寝て、帰る時はあっさりと別れる。それが何より気が楽でいい。セフレなんて気楽でいいねと云う人を見るたび、なら窮屈な関係なんてさっさとやめてしまえばいいのにとしか思わなかった。
 デパートを出ると、微かに油物の匂いがして早々と顔を赤く染めたサラリーマンの団体が通り過ぎた。  「揚げ物か……」と声が出る。胃の中が脂っこいものを求めだしていた。裕也さんにたのんで今夜は串揚げの美味しいお店にでも連れてってもらおう。
 派手な街明かりが溶け込んだ夜気を取り込むように小さく開けた口で息を吸う。そしてヒールの先を強く押し出すように歩きだした。

 街明かりの輝いている中、大通りから一本入った道の手前に裕也さんの車は止まっていた。早歩きで向かうと、タバコを口にくわえ、車に寄りかかった姿でスマホを眺めていた裕也さんが私に気づいて小さく手を振った。
「いきなり呼び出してごめんね。仕事で疲れてるだろうから、車でゆっくり休んで」
「私は大丈夫。裕也さんこそ、仕事終わりなら疲れてるでしょ」
「僕のことなら気にしないで、君に会えただけで癒されるから」
 本当に甘いセリフが良く似合う人だなと思う。しっかりとした輪郭に綺麗に通った鼻筋、男らしくてどこか爛れたような甘い雰囲気がある。
 執事のような無駄のない仕草で裕也さんが車の扉を開けるとそっと手が私の前に差し出された。私がその手を取ると「どうぞ」と言って優しく、柔らかいものに触れるような力加減で車の中へと誘導される。
まるでひとつひとつの行動が洗練されていた。その所作で女慣れしているのがよくわかる。
 シートにもたれると、彼が顔を近づけてきたので、唇でそれを受ける。絡ませた視線をゆっくりと解くように彼の腕の中から離れる。裕也さんはそのまま運転席の方へと回り、ハンドルを握ると、「来てくれてありがとう」と呟いてキーに手をかけた。
 車が走り出すと直ぐに眠気に襲われた。仕事疲れのせいだろうか、車の振動が心地よく、裕也さんのゆっくりとした穏やかな口調が眠りを誘う。
 彼の顔を見ると、赤信号に照らされて陰影がはっきりと輪郭に沿って浮かんでいた。深く掘られた眼窩に影が降りて、凛として見える。
「どうしたんだ?顔になにか付いてるのか?」
「いや、いい顔だなって思って」
 素直に話すと、裕也さんはハンドルを握りこちらを見ないように真っ直ぐ前を向いたまま困り顔をした。目の端に皺を寄せて小さく照れ笑いをする様子は、愛嬌があって可愛いらしい。
「そういえば、最近は仕事はどうなんだ?前は忙しいって話していだけど」
「今はそんなんでもないよ。忙しい時はなんとかね終わった感じ。裕也さんこそ、ほんとに大丈夫なの?繁忙期は終わったって話していたけど」
「それがさ、納期が思ったよりも早くてね。思わぬ休みになったんだよ。まっその代わりそれまでは酷い忙しさでさ。こっちのことなんて何ひとつ考えてくれないクライアントだったからかなりキツかったけど、それも終わったから大丈夫。あ、でも、暇なのは嵐の前の静けさみたいなものだからね、またいつ酷くなるやら」
 やれやれ、と言いながら裕也さんはハンドルを回す。右折するプリウスの窓には夜景の色彩が飛び散るように反射していた。指先で触れると光はとても冷たくて、心地いい。
「なかなか君に会えないから、今日は会えるのを楽しみにしていたよ」
 甘ったる声色に胸の中がザワつく。自分に確固たる自信があるのだろう。優しいのに嘘の匂いがする言葉の駆け引きは裕也さんの性格が滲み出ているように感じた。
「嘘。裕也さん仕事が好きでしょ。仕事が全てで、私はただの暇つぶしだって知ってるから」
「君はいつもそうやって卑屈に。これでも君のこと好きなんだけどな」
 これでも、ってなんだよ。分かるくらいはっきり抱きしめて欲しいと思っていると、徐ろにブレーキがかかり、薄暗い路地の先で突然止まってしまった。
 ハッ、として裕也さんの方をむくと同時に彼の指先が私の頬に触れる。そっと輪郭をなぞるように中指が首筋を伝う。声を出すよりも先に筋肉質な腕が私の項に回って、引き寄せられるようにして、口を塞がれた。甘く、舌先の輪郭がゆっくり溶けていくような深いキス。痺れるような熱に頭の中がクラクラとした。気づけば服の中に彼の掌が忍び込んで背中のホックに触れている。慣れた手つきにはいつも心臓が高鳴る。頭の中で溢れかえっていた熱が痺れとともにゆっくりと下腹部におりてくる。
 指先が柔らかいものを掬うように私の胸に触れた。吐息混じりの声が漏れると、彼は嬉しそうに微笑んだ。
「やっぱり君のこと好きだな」
 裕也さんの肩越しに見えた窓ガラスには、惚けて真っ赤な熱を帯びた私の顔が、夜の闇の中へ浮かんで見えた。
 再び舌先がから娶られると痺れが全身に巡って力が抜けていく。彼の首元に腕を伸ばし、そのまま抱き寄せる。シートをゆっくりと焦らすように倒すと彼の体が私の体を覆った。どんなにカッコイイ人でもこの瞬間だけは下卑た様子が見え隠れする。でも、その隙が垣間見れる瞬間が男の人の脇の甘さであり、私が好む瞬間でもあった。
 緩んだベルトの隙間から手を入れ、硬くなったそれを擽るようにそっと撫でる。ビクッと震え、裕也さんが一瞬目を閉じて声を漏らした。
 こうやって二人の背徳感が満たされていく。達成感に至らないようにギリギリの水面でゆらゆらと楽しむ。零れたら終わり。一瞬にして熱が冷めしまいお互いに冷静さを取り戻す。そして、若干の罪悪感に胸が傷んでしまう。裕也さんは、結局二人ともMなんだよと笑っていたけど、私はどちらかと言えば自分の中で湧いている性欲はサディスティックな感覚に近いような気がしていた。世間の都合に対する反対行動、或いは攻撃なのかもしれない。デモのような高尚なものではないにしても、私が世間体で満たされないものを私自身の欲望を満たすために行動している。それを否定されるいわれはないと思っていたし、世間が私のような人を否定的に見ていると思えば更に熱は上がった。時々考えるのは、常識や倫理、貞操、そういった正しいものを人一倍強く意識していたからこそ、私はそれから逃れたかったのではないだろうかということ。いい子だねと言われると、何となくむず痒く、優しいだの、尊敬できるだの、正しい人間であるというレッテルが貼られる度、圧倒的な拒絶感が胸の中に沸き起こって息苦しくなる。そういった人間は一定数きっといるのだろう。きっと私もそのひとり。だから、どんなにその場を笑顔で切り抜けても後で反動のように自分を傷つけたくなる。しかし、そう感じていても私は世間や倫理観といった正論に雁字搦めに縛られていて、抜け出すことが出来ない。正しさに対する自己の悪意。考えれば考えるのだけ、憂鬱になった。だから、その鬱憤を晴らそうとする私の性欲は酷く暴力的で淫靡なものを隠さない。
 黙ったまま彼の背骨に触れて、もっと抱いてと言うように強く抱き締めた。
 彼の息遣いが荒くなる。
 脳内を快楽が走り抜けて、身体が仰け反る。動く度に悲鳴のような小さな喘ぎ声がだらしなく開いた口元から漏れ出る。私の胸元をまさぐる裕也さんの手を抑えると、まるで苦しいかのように裕也さんは眉間に皺を寄せ、低くくぐもった声を吐き出した。口の中に彼の指が侵入する。まるで身体が溶けていくようだった。二人の快楽にのまれようと輪郭も何もかも全てが曖昧に消えていく気がする。もっと激しく、と言ったけれど声になったかは分からない。代わりに彼の二の腕をしがみつくと私の身体をシートに強く押しつけて、一気に腰を下ろした。叫び声に似た声が溢れた。汗ばんだ身体の全てが快楽を楽しんでいる。もうダメ、と言うと、彼は嗚呼と苦しげに目を閉じたまま全てを私の上に吐き出した。
 酷く熱ぽい身体のまま車の天井を眺める。しばらく意識はぼんやりとしていた。横で力無さげな様子の裕也さんがペットボトルの水に口をつけると、僅かに口の端から水がこぼれてしまった。
 車の空調から出る風に前髪が微かに揺れる。あれだけ湧いていたはずの熱はもうどこにも無かった。落ちていた下着を拾うと、指先からするりと抜け落ちた。
「大丈夫かい」
 裕也さんが私の目をのぞき込むようにこちらを見つめている。
「うん、ちょっと疲れただけだよ。大丈夫」
 そう言って隠れるように下着を拾ってさっさと身につける。
 時計を見ると九時半を過ぎようとしていた。
「ごめん、ご飯食べようって話していたのに、こんな時間になってしまって」
「ううん、私も楽しんでいたから気にしないで」
 私は体をずらして、緩慢な仕草で膝に置かれた彼の手の甲に手のひらを重ねた。


「ねぇ、折角なんだし、何処かに泊まったりしない?私なら大丈夫だから」
 車窓に映る街の景色を眺めたながら呟くように言った。置き所のない人差し指が宙を何度も彷徨う。何だかこのまま終わりたくはなかった。
 けれど、裕也さんは目線をこちらに向けることも無いまま、申し訳なさそうに瞼を僅かに下ろした。
「あっいや、明日も仕事だから、それは難しい」
「そうだよね。突然ごめん」
「君が謝ることじゃないよ。僕こそほんとにごめんね」
 裕也さんは困ったように苦笑して、頭を下げる。けして後ろ髪を引かれるような感慨はなかった。代わりにそっと彼の項に手を回す。首筋に指をはわせると驚いたようにこちらを見たので、彼の瞳を覗き込むように顔を寄せる。彼は嬉しそうに微笑みながら唇でそれを受け取った。
「じゃあ、今度会う時は串揚げが食べたいから、いいお店探しておいて」
「串カツか、わかったよ探しておく」
 窓辺を眺めていると車が光の散乱する闇を抜けていく。変わらない男女の友情なんてあるのかな、と声にならないように口先だけを小さく動かす。聞く勇気はなかった。
 わざとらしく大仰なため息をつく。少しでも傷つけばいいのに。傷つかないとこに居ようとする彼は少しだけずるい。分かっていても、その距離は深く刻まれた溝のように二人を切りはなしている気がして、憂鬱だ。裕也さんは私の機嫌をとろうと息を吐くように甘い言葉を口にした。けれど、どれも私の心には響かなかった。
 彼はいつだって性的関係と世間における自分というものを極端に切り離したがる。私はいつだって蚊帳の外で、赤の他人。プライベートの境があまりにもはっきりと見えていて、私にはそれが何よりも虚しく思えた。刺激的な遊び、というのが彼の私との関係なのだろう。それ以上でもそれ以下でもない。私だって、その関係性を壊して彼の人生に介入したい訳では無い。でも、露骨に拒否されるのは流石に寂しい。
 家の近くに着くと、私はカバンにしまってあったチロルチョコをひとつ、どうぞ食べてくださいと手渡した。裕也さんは嬉しそうに眉尻を落としてありがとう、と小さく頭を下げた。私は名残惜しさで後ろ髪を引かれる前に、外を確認しながらそそくさと外へ出て、車の方に向き直った。
「今日はありがとうございました。とても素敵な時間でした」
 悪戯ぽく微笑むと、裕也さんは車内から顔を出して申し訳ないといった様子で「このお詫びは今度絶対に」と言いながらキスをしようとしたので、「ここではちょっと」と言って両手で彼の胸を押した。
「君はちょっとツンデレなところがあるよね。昔から」
「昔からってまだ二年だよ」
 そうだ、裕也さんと知り合ってまだ二年しか経っていない。なのに、なんでも知っているような余裕は何処から湧いてくるのだろう。
 裕也さんと初めて会ったのは、二年前の夏、ちょうど今頃だ、銀座で飲み歩いた帰り道だった。私は失恋したばかりで友人に付き添われて慣れもしない飲み歩きへと意気揚々と銀座に繰り出していた。男なんて、と男への余計な期待も理想も失って、乾いた心をアルコールで潤す状態に気づけば呑みすぎてしまい、見捨てられるように友人たちも帰ってしまっていた。私は一人道端の街路樹に寄りかかって木々の隙間から覗く月明かりを眺めていた。
 裕也さんはそんな私の様子にただならぬもの感じたらしく、大丈夫ですか、と心配そうな表情を浮かべて話しかけてきた。唐突に涙が溢れ、気づくと見知らぬ男だった裕也さんの胸に飛び込むようにしてしばらく泣き腫らしていた。このことを思い返せす度に酔いの勢いというのは本当に怖いと思う。でも、その間、裕也さんはその場を動くことも無く、ただただゆっくりとした仕草で背中を叩いてくれていた。なんて優しい人なんだろう、と思った。
そして、自然と口を開いていた。
「もう少しだけ、そばにいてくれませんか」
 きっとアルコールが酷く頭の中に回っていたんだと思う。けれど、あんな言葉が私の口から出たのは、結局男と別れた事実から逃げたかったから。あの頃の私は、自分を慰めてくれるなら誰でもいいと思うくらいに自暴自棄になっていた。
 裕也さんは黙ったまま少し考え込むような顔をした。そして、困った様子のまま、いいですよ、落ち着くまでいますから、と穏やかな口調で言った。
 彼がさし伸ばした手をとると、引き寄せらるまま腕の中へと抱かれた。あの時も真っ黒な空に小さな月が浮かんだ夜だった。
 見知らぬ人なのにとは思ったけれど、肌から伝わる熱が心地よくてそのまま私は体を預けてしまった。
「私捨てられたんです」と男の胸の中から顔を出して言う。「きっといい女じゃないんですよね私って」
上がりきらない口の端を震わせながら微笑んだ。
「いつもそうなんです。私はしっかりやってきたつもりなんですけど、結局いつだって自分よりもいい人がいるとか、あなたにはあなたの人生があるからとか言って、私の傍から消えてしまうです。僕よりいい人がいるなんて、勝手ですよね。私はあなたがいい人だって確信したから付き合ったのに、そんな気持ちも知らないで本当に勝手…… 」
 車が通り抜けると顔に冷たい影が降りた。
「きっと言い訳なんですよね。自分は加害者なんだって反省してますよ、なんて口にして。そう思うことで本当の意味で反省なんて何一つしなくて済むんですから。自分が傷つくことは無いし、相手に配慮しているって大義名分も成り立つ。ただ取り残された私はひとりこうやって悲しみにくれるだけ。彼は私みたいに泣いてもいないでしょ。そのための加害者の振りです」
 永遠に話していたような気もする。けれど、その間裕也さんは何ひとつ言葉を口にすること無く、その場を動こうともせずしばらく私の顔を見つめたまま、時折ゆったりとした動作であいずちを打ってくれた。それから、私が疲れから言葉が続かなくなると裕也さんは私の体を抱き抱えて「君が少しでも救われるのなら」と近くの公園まで付き添ってくれてそのままベンチに二人で並ぶように座った。
 何を話すわけでもなく、ぼんやりと外灯に集まる蛾の姿を見て二人で夜風に吹かれていると、酔っている感覚がゆっくりと足元へ溶けだすように消えていった。脈拍は治まっていき、首筋に滞留していた熱も風の中に奪われていた。
 裕也さんは「そろそろ大丈夫そうだね」と言って私の顔を見つめ、おもむろに立ち上がった。「じゃここで」と言われるのが寂しくて、束の間、彼のスーツの袖を掴んでいた。
「まだ酔ってるから」
 冷静さは取り戻していたけれど、酔った勢いを装っていた。今日だけはわがままでも、いいでしょと胸に呟く。
 裕也さんはそれを振りほどくことも無く、眉間に僅かな皺を寄せてやや困った顔のまま、「どうしましょうか」と頭を傾げた。
「じゃこうしましょう」
 裕也さんはそう言って、徐にポケットにしまっていたスマホを取り出し、こちらに向けた。
 裕也さんは私が求めてることを決して無下には拒まない人だった。
「LINE交換して、今度ご飯行きましょう。もっともこんなに酔わないように」
 急速に自分の姿が恥ずかしくなった。何してるんだろう、私は。下を向いたまま、鞄からスマホを取り出してLINEのコードを裕也さんに見せると慣れた手つきで登録を済ませる。
「ありがとう、あっそうだこれ、酔った時には甘いものが欲しくなるだろうから」
 そう言ってポケットから小さな包みに入ったチョコのかかったミカンのドライフルーツを取り出した。
「あ、ありがとうございます」
 私は受け取ると、そのままカバンの中にそれをしまった。その頃にはもう酔いは完全に覚めていて普段の自分を取り戻していた。
 それから時折、ご飯に誘われるようになって、ある日、酔ってしまったことを理由にしてホテルで体を重ねた。けれど、どちらから付き合うとは言わず、曖昧な関係が半年は続いた。裕也さんがどんな人かも分からないまま、身体だけを重ねたことに罪悪感がなかった訳では無い。でも、明確に関係を決めてしまうことへの恐怖もあって暫くは聞けずにいた。
 何度か逢瀬を重ねた後、私は裕也さんの胸に手を当てて聞いた。
「私たちって一体なんなんだろう。このまま曖昧な関係を続けているとよくわからなくなってしまうような気がして怖いです」
「友人です。僕達は、お互いに傷をつけないように触れ合える唯一無二の友人です」
 裕也さんは穏やかだった。いつだって裕也さんは穏やかな人ではあったけれど、その日はいつもよりも幾分落ち着き払ったような低くハッキリとした意志を含んだ言葉に聞こえた。
 もう体を重ねたのというのに、今更友人なんて清い関係が続けられるとは思わなかった。多分、お互いにそう思い込むくらいでしか、この関係を受け入れるすべがなかっただけだ。裕也さんは私の方を見ることは無く、真っ黒な塗りつぶされた車窓をただ見つめていた。きっと、セフレと言ってしまうと傷ついてしまうから、友人という言葉で覆い隠して何もかも正しいのだ、と自分に言い聞かせているに違いない。私もそうだった。
「じゃ友人でいてください。裕也さんもきっと踏み込まれたくないところがあるはずです。私もそうです。だから、どんなに寝ても恥ずかしい姿を見せても私たちは友人でいいです。多分私たち似てるんですよ。真面目に生きてきすぎて、悪いことをしたくて仕方ない、子供みたいな。だから、それを満たすための友人です」
 ゆっくりと笑ってみせると、彼は苦笑していた。
「あれから二年か、早いような長いような」
「あっという間ですよ、二年なんて」
 車体に映った私はもの悲しげに薄い微笑みを浮かべていた。
「じゃまたこんど」
 私が頭を深々と下げると、彼は「また連絡する」と言って車に乗った。見送る車体は信号の光を艶やかに反射していて、冷たい視線のようだと思った。

 あの日以来、裕也さんからの連絡はなかった。美味しいカフェを見つけたから行こう、と送って三日間、既読すらつかない。気づけば仕事に日々が謀殺されるようになり、そんな毎日に埋没して彼の返信を待っていることすら忘れていた。
 元々互いに連絡する頻度は決して高くはなく、何かあって送ったとしても裕也さんの返事は早くても翌日遅ければ一週間ということもざらだった。しかし、人のことは言えず、わたしも通知を溜めてしまう癖があるので、裕也さんに向かって返信をくださいとは、けして言えなかった。
 スマホを机に置いて、頼まれた書類の数値を計算ソフトに打ち込む。誰でも出来そうな作業の連続に辟易とする。でも、これが私の仕事なんだからと自分に言い聞かせて、無心で続けるしかない。結局、どんな仕事でも好きでやっていない限りは自分に嘘をついてやるしかないのだ。
 学生時代のように、素直に善悪や好き嫌いでやることをハッキリと決められる時間は、もはや遥か過去だ。だからと言って社会の愚痴を口にしたところで、社会人なんてそんなもんでしょ、言われたことをやればいいんだよ、給料分ちゃんと働けば貰えるんだからさ、と自分の内側に渦巻く感覚は人に共感されるどころか、無理解を増長させるだけだった。そんな社会で生きてれば、周囲に対する期待も将来への希望も陰ってしまう。きっと私と裕也さんの関係もそんな社会の基盤に根ざした絶望を持て余しているからこそ、続いているのかもしれない。
 それでも、自分を誤魔化すことは昔より上手くなった。嘘でも笑うことはできるようになったし、思ってないようなことを口にしても何の罪悪感も抱えなくなった。
 ただ、こうやって思いが渦巻いて苦しくなる日は、生クリームがふんだんに使われている真っ白なショートケーキが食べたくなった。いちごのみずみずしい酸味に柔らかいスポンジに沈むような生クリームがストレスを緩和してくれ様な気がして、無性に買い求めたくなる。
 値段なんていくらでもいい。コンビニの棚に並んだ小さなショートケーキでもいいから、今すぐここを飛び出して食べたい。フィルムに付いたクリームも指ですくって舐めてしまいたかった。
「菊池さん、今いいかしら?」
 鈴のような澄んだ声がして振り返ると、先輩である筒地葵が立っていた。
「はい、大丈夫ですけど」
「悪いんだけど、この仕事頼まれてくれない?」
 そう言って申し訳なそうに目を伏せて資料を私に向けている。微かにサンダルウッドの香りがして、夏の山を彷彿とさせた。
「はい、大丈夫です、やりますので資料をください」
「本当に、ありがとう」
 凛とした顔つきが弾けるように破顔する。女の私でもその顔にドキッと胸が鳴る。ナチュラルメイクというのか、化粧気もあまりない人なのに、切れ長な目元は凛としていて、白く滑らかな肌が蛍光灯の光に照らされて美しく輝いているみたいだ。まるで私とは別系統の人類なのではないかと疑いたくなる。
 浮いた話は一切聞かないし、結婚しているという話もないけれど、こんなに美人なのだからきっと引く手あまたなのだろう。
「おーい、筒地君ちょっと」と部長が声を張り上げてこちらに向かって手を振った。葵さんは、「はーい、ちょっと待ってください」と部長の方を向いて澄んだ綺麗な声を上げる。
「ごめん、呼ばれたからまた後で確認するので、よろしくね」
 筒地さんはふわっと綿毛のような微笑みを浮かべながら、「今度お礼するね」と口角を上げて小さく手を振った。
 反射的に視線が床に向く。女らしさに溢れていて、誰からも好かれる彼女を私はどうしても好きにはなれなかった。
 私には無い全てを彼女は持っているように思えた。そんな人の前にいる私のどす黒い感情は酷くいたたまれない。
 逃げるようにパソコンの画面を見つめた。文字と数式だけの画面は、静謐だ。なんの感情も入る隙間のない、白と黒の文字列の塊だけが存在する。それを眺めていれば乱れた感情も段々と落ち着いてくる。
 仕事と感情の折り合いとはこういったことなのかもしれない。
 私は買ったまま机に放置していた缶コーヒーを開けて、ゆっくりとそれを飲み干した。
 わざとらしい苦味と甘ったるく重い舌に張り付くような甘味料の味がお腹の中へと落ちていくのがわかる。けして、美味しいと云うわけではなかったが、体を起こすのにはちょうど良い甘さだ。ほっとして、息を吐く。窓の外はゆっくりと茜色が降りていて、斜陽がビルの壁面を照り返し輝く街並みは日々が終わろうとしていると云うのに、鮮烈な色彩をして美しかった。

 腕を上げて、凝り固まった体を伸ばす。エレベーターの鏡に映った腫れぼったい瞼には疲れが浮いて見えた。
 すっかり夜だというのに未だに分厚く温い空気がひしめき合い、酷い湿気が漂っていた。
 夏の空気が疲れた体にのしかかっているようで肩が重い。駅までの距離も遠く感じ、憂鬱な気分になる。気づくと自然と猫背になって、ぼんやりとした意識のまま歩いていた。
 飲み屋に行こうとする学生の集団の隙間を縫うように避けて、大崎駅に向かう。山手通りの首都高速道路入口のあたりを過ぎると、駅が見えて、何となく帰宅出来ることにほっとしている自分がいた。家が好きというわけでなかっかけれど、しかし、仕事場で気を使い続けるよりかは家にいる方が鬱屈としていたとしても幾分マシだ。道の端に移動して、人にぶつからないように確認しながら歩く。周辺には大きな企業がいくつも点在し、道沿いに大学もあるため夕方頃からこの辺りは道幅に対して人の往来が非常に多い。そのため、ぼやぼやとしていると直ぐに人にぶつかりそうになる。
「菊池さん」
 艶かしい声がして振り返ると、小走りで筒地さんがこちらに向かって手を伸ばしていた。
「筒地さん、どうしたんですか?」
「どうしたとかはないよ。ちょうど見かけたら声掛けただけ。ほら菊池さん、あまり雑談とかしたこと無かったから、それにお礼の件もあるからね」
「あぁ……  」
 一瞬この人は何を言っているのだろうかと首を傾げる。「何?なんか変なこと言ったかしら」と香り立つような甘え声で言われたので、「いいえ、大丈夫です」と答えると筒地さんはふわりと微笑んだ。
「そんなに固く話さなくていいわよ」
「あっはい、すみません」
 頭を下げると彼女はさらにころころ笑った。
「そういえば、今日はありがとうね。お陰でとても助かったよ」
「いいえ、そんなそんな、私は仕事をしただけですし」
「それでもよ。本当は鈴本さんがやるはずだったのに、急な予定が入ったとか言って外回りに行っちゃって、なんでか私のとこに急に回ってきてね。どうせ、サボりに行っただけなのに」
 筒地さんの言葉の端々に嘆息が漏れていた。世渡り上手な人なんだろうと一方的に見ていた私は、その様子が意外な気がして、彼女の顔を見つめた。
「なに?」
「いいえ、なんでもないです。ただ、筒地さんでもそんなふうに仕事を押し付けられたりするんだと思って」
「そりゃそうよ。世の中、そんなに上手くはいかないもの。なんとか被害を少なくしようとは思うけど、でもね、それは最低限ってだけで、結局社会ではどんなに頑張っていても嫌なことは押し付けられるし、いい人のフリしてたら、逆に付け入る隙みたいなの見せてしまうこともあるの。結局そんなふうにもみくちゃにされて生きていくしかないのよ。勿論、必死に周りに合わせていくくらいしか私にもできないからね 」
 私がぼうっとしていると、筒地さんは苦笑して「でも、負けてられないわよ」と瞳を覗くように顔を近づけた。
「そ、そうですね」
 小さく頷く。どう返事をしたらいいのか分からなくて、口を閉じたまま視線を足元に落とした。いつの間にか、人々の群れは駅に吸い込まれて、道は空いていた。
「よく言われるの。男にゴマすっていいわね、とか、どうせ男に困ったことないんでしょ、とか。それも味方だと思っていた同性に。でもね、そんなわけないじゃない。沢山嫌な思いして、それでもニコニコして笑顔を振りまいてないと上手く生きていけないから、そうやって生きてきただけ。お陰で行き遅れになっちゃったけどね」
「えっ」と声をあげると、筒地さんは目を細めて笑った。
「男運がないのよ。生まれてからこの方ね。父親は暴力を振るう人だったし、いとこのお兄さんには悪戯されたし、高校の時に付き合った男なんて、付き合った日にギラついた目で私の服を脱がそうとするのよ。ゴムも持たないで」
 私がなんて返事をしていいのか考えあぐねてしまっていたので、自然と困り顔をしていたのだろう。筒地さんは「ごめんね」と優しい声色で言った。私は頭を振って「大丈夫です」と答えると「ありがとう」と綿毛のように微笑んだ。
「だからかな。私、男の人になんの期待もしてないの。お陰で付き合う人付き合う人、みんな他に女作って出ていくし、だからって、私も男にすがりついたりもしないんだけどね」
「でも、寂しくありませんか?一人でいるのって」
「そうね。でも、付き合ったって私はただの女よ。相手に合わせて生きていくなんてきっと私には出来ない。付き合ったからって、結婚したからって、私が彼女や奥さんになれるなんて想像も出来ないし、なりたいとも思わないもの」
「そうなんですか?」
 筒地さんは小さく頷く。微笑みにささやかな影が降りているようにみえた。
 全ての幸福を手に入れている人なんて当然いない。どんな人にだって得ることの出来ない幸福が当然あるのだ。なのに、私は筒地さんが私と違って幸福な人なのだと、決めつけていた。自分の馬鹿馬鹿しさに苦笑が漏れそうになる。
「凄いですね」と言うと、「何にもよ」と筒地さんは悲しげにまつ毛を下ろした。
「菊池さんだって、沢山苦労してるでしょ。生きてればいい事ばかりじゃないものね」
「はい」
「でもね、一つだけ女が守るべきことがあるのよ」
「えっなんですか」
「やたらと泣かないこと。泣いたらスッキリして、恨み辛みもそれに溶けて消えてしまう気がするから。だから、泣かないで恨み辛みもエネルギーにして生きていくのよ」
 胸に棘が刺さるようだった。排気ガスの匂いを巻き込んだ風が二人の間を流れる。
 平然な振りをしようと、「私そんなに泣きませんよ」と微笑んだ。しかし、そうかな、と首を傾げてこちらを見つめる筒地さんの視線は酷く苦しいものだった。簡単に泣いたりしない、と言いたいのに、言えない自分がいる。男と別れる時は必ずと言っていいほどよく泣いた。泣けば全てが許されるような気がして。でも、結局そんな涙も彼にとって他人が流す涙なんだと気付かされて、さらに泣いた。
「筒地さん、やっぱり本当に素敵な人ですね」
 と、気づくと無意識に呟いていた。媚びへつらう訳でもなくて、嘘でもない。純粋に筒地さんの姿が美しく見えていた。
「ありがとう、菊池さんだって素敵よ」
 筒地さんがこともなげに言う。
目を細めて優しく微笑むと穏やかな空気が辺りを包んでくれるようだった。
「それとね、女の武器は涙じゃなくて、笑顔よ。そうやって生きていくの」
 そう言って、筒地さんはパッと目を大きく開いて笑った。私は面食らってしまい、言葉が出てこなかった。その様子を見た筒地さんは破顔し、声を出して笑った。目の端に浮かんだ皺には愛嬌が滲んで見える。やっぱり素敵な人だな、とまじまじとその顔を見つめた。
 さぁ帰りましょうと言うので、私も筒地さんの背中を追いかけるように駅に向かう。
 どこからともなく酔っ払いサラリーマンの騒がしい声がふいに、響いて聞こえた。

続く。

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