高校時代④ 保健室登校

GW明けの朝、私は家にあった向精神薬や睡眠薬を過剰服用し、そのまま不登校になった。

私は、このときまで驕りがあった。
自分は、家庭環境が悪い中、それなりに頑張ってきた。
中学時代に少し不登校になっても、なんとか学校に通えるようになったし、環境が悪くても、酒もタバコもやっていない。犯罪も犯してない。不良じゃない。高校受験で本気で勉強したら偏差値だってぐっと上がった。
私はちゃんとやれている、と思い込んでいた。
そして、これから人生は好転していくはず、と思っていたのだ。
言ってみればたかが「厳しい高校」程度で、なにもできなくなるなんて思いもよらなかった。

中学時代、進路について学ぶ時間に、「福岡県は中退者が多い。きちんと高校を選ぶべきなのだ」という話を聞いた。
選ぶも何も、私には公立高校しか選択肢がなかった。単位制高校に行こうとしたら反対された。親の言うことが絶対なのに、なにが自分の行きたい高校だろう?
だが、行きたい学校に行けないことなんてよくあることである。親の反対、金銭的問題、距離、受験に落ちた……「よくあること」だ。

「よくあること」なのに、耐えられなかった。情けなかった。今も情けない。
それでいて、すぐさま辞めるという決断はできなかった。入学費用、制服代、教科書代……貧しい我が家にとってどれほどの負担だったか知っていたからだ。
低所得の母子家庭なので、県立高校の授業料は手続きを踏めば免除になる。しかし、事務員のミスで、4月分の授業料も払わなければならなかった。2万円もしないその金額は、当時の我が家にとってはかなり痛い出費だった。

そして、私に足りなかったのは、精神力も体力もあるが、世界への信頼である。

制服の採寸、事務員のミス、教科書の手違いもあった。
また、経済的理由ならばバイトを許可するという校則だったので、バイトの許可を取ろうとすると、「表から見えない場所で働くこと」という、校則にないルールを説明された。高校生が働けるような場所でそれは難しいことだ。市内中心部のため、工場などの募集はない。更には生徒手帳が配られるのが遅く、必要な手続きで身分証明ができず、大変困った。
一つ一つは些細なことだった。だがそんな「学校」が、甘えた根性を叩き直すとばかりに洗脳のような合宿を行い、これから3年間厳しい生活だぞと活を入れてくる。
今思えばたかが学校だ。しかしそのときは世界のすべてだった。

15歳の私は、厳しい家庭環境を耐えてきた。中学からは、恐怖が減った生活を送っていたけど、母は不安定だったし、家計も不安定だった。そして近づいてくる人間たちに怯えた。
シングルマザーを利用しようとする人間は、多い。娘がいるなら尚更だ。母にあらゆる名目で近づこうとする人間は大勢いた。そう、私目的も混じっていた。私はそいつらのことを死ぬまで忘れないだろう。彼らの表情は、醜悪であった。

そんな醜悪に、立ち向かっていた私が、こんなことで。
なぜ毎日楽しく生きることが許されないのか。
私は自分を責め続けた。学校を休めば休むほど、授業は進み、ついていけなくなる。行かなければならないと思った。
保健室登校が許可され、まずは保健室登校から始めることになった。教室はまだ、怖かった。

保健室では、しばらくは数学の参考書を進めていた。
答えがない週課題(毎週の課題をこう呼んだ)の問題集ではなく、答え合わせができる参考書なら、自力でどんどん進められる。合っているのかいないのかわからない状態がずっと続くというストレスがないだけで楽しかった。新しい知識を得るという実感があった。ずっと数学の問題を解いていると、心も整う気がした。
そして、これはサボりだが、小説を書いていた。文芸部の部誌に掲載するために小説を書いていたのだ。宮部みゆきのある短編に憧れて、一人称を使わずに書き上げようと、SF風味で思いつくまま書いていた。

そして、保健室にも慣れた頃、「1年次までは頑張って通い単位を取る」ことを目標に頑張ることにした。これははっきりいって失敗だった。その少しの元気が残っているうちに、公立の単位制高校に入り直していれば、と後悔している。どんなに家にお金がなくても、泣いて騒いでお願いすればよかったと。高校をさっさと辞めてバイトしてお金を作ることもできた。
あの頑張りは無駄だったと思う。
気を使うべきでないところで、気を使い、遠慮した。
オーバードーズする前に、子供らしく訴えればよかった。
この「1年間は頑張る」という自分に課した目標が、更に自分を壊していった。

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