妹 の 恋 人 【17/30】
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とりあえず、自分のスマホに電話してみることにした。
なんというか……自分がバカになった気分がしたけど。
喫茶店を出て、公衆電話を探す。
街で公衆電話を見つけることは、最近なかなか難しい。
いらいらしながら、大きな本屋さんが入っている商業ビルに入り、広い書店のフロアを通り抜けた。
そのときに、何の前触れもなく……ふと、江田島のことを思った。
たぶん、レジ近くに平積みで並べられていた新刊図書の山を見たからだろう。
一時はベストセラー作家になった江田島だったが、あれ以来はニュースで名前を聞くことも、雑誌で彼の名前を見ることもない。
本屋でもあんまり見かけないな……あたしたちのことが書かれたあの小説……
タイトルは……『双子どんぶり』。
まあ、デビュー作でベストセラーを打ち出した駆け出しの作家が、その一冊だけで消えてしまうことはよくあることだけど。
あれから江田島がどうなったのか、わたしは知らない。
大学進学を期に、わたしと咲子は別々の人生を歩むことに決めた。
というか、わたしは、なるべく咲子と離れていられるようにしようとした。
妹と人生をリンクしないですむ生き方を心がけた。
わたしは違う県の公立四年制大学の商学部を受験して、合格した。
そして家を出て、大学の近辺に下宿した。
咲子は地元の女子大に入学した……そして、自宅からその大学に通った。
たしか彼女が選んだのは文学部で、「なんたら人間文化なんたらコミュニケーション学科」とか、そういうよくわからない名前の学科だったらしい。
とりあえず、これでひと安心だった。
これでようやく……わたしはわたし自身の人生を生きることができる……はじめてそう思うことができた。
受験勉強はいい気晴らしになった。
なぜなら必死で勉強に集中しさえしてれば、咲子のことを考えなくて済むから。
内藤や、江田島との、おぞましい思い出……後悔や屈辱などに……責めさいなまれなくて済む。
その間、咲子と口を効いたことはほとんどない。
江田島の件があってからさらに引っ越した別の街の新しい家でも、わたしと咲子の部屋は隣どうしだったが、わたしと咲子の部屋を隔てている薄い壁は、もはや敵対関係にのある二国の間にある国境線に等しかった。
咲子はあれ以来、わたしを怖れるようになった。
それまで以上に、もっと明らかに。
わたしはこれまでどおり、極力、咲子を無視した。
徹底的に無視した。
転校した高校でも学校は同じだったけれども、わたしは咲子などはじめから存在していないかのようにふる舞った。
学校や家庭でわたしが咲子を徹底無視するとき……
いつも視線の端には、叱られた子犬のようにびくびくして縮こまっている咲子の姿がある。
かわいそうだとは、とても思えなかった。
思い知ればいいんだ、と痛快な気分になるようなこともなかった。
そう……もう、わたしたちは姉妹でもなんでもない。他人だ。
しかし……多分、雲の上にいらっしゃるどなたかが、それをお許しにならない。
大学生活がはじまり、一人暮らしにも慣れたころだった。
わたし自身の性格が大きく影響していることは判っていたが、わたしにはなかなか友達が出来なかった。
もともと友達がいないことを、そう苦にしないという生来の性格も手伝ってか、大学ではいつもひとりぼっちだった。
サークル活動や、クラブ活動、あるいはボランティアなど、そういう人々の輪に自分から入っていけば……
まあ多少は、友達のようなものができたかもしれない。
しかしわたしの目には……ああいう連中……無意味に男女で小集団を作り、これ見よがしにその仲良しぶりを周りに見せつけている連中は、非常に不気味で不快なものに映った。
まあ、ようするに……わたしはそれまでの経験のせいで、随分、醒めた人間になっていた。
新入生の女の子をモノにすることしか考えていない、童貞明けも間もない阿呆ヅラのカラッポの男ども。
そうしたカス男どもの期待に応えようと、必死で“まだ何も知らないかわいい新入生”を臆面もなく演じている女の子たち…………見るだけで、胸糞が悪くなった。
はあ、と地方の寂しいキャンパスライフでは、溜息をつくことが多かった。
特に昼下がり、大学の中庭にしつらえられていた芝生の中の小道を歩くようなときに。
まだお化粧にも、私服のおしゃれにも慣れていない感じの女の子たちの一団が、一体なにがそんなに面白いのか、カフェテラスのオープンスペースで大笑いしているのを目にすると……頭がずきずきした。
気持ちの悪い、頭はからっぽの、アマチュアビッチどもめ。
わたしは大学に居る時間のほとんどは、そうした呪いの言葉を頭の中で吐き続けていた。
まあ、ここまで言えばだいたいわかると思うけど、わたしは自分で自分を孤独に追い込みながら、自分の孤独に対して常に怒りを蓄積させていたわけだ。
しかしそんな時に……わたしはふと、咲子のことを思い出すことがあった。
あのアホまるだしの女の子たちは、少しも咲子には似ていない。
咲子はあんなふうに友達とうちとけることも、意味なく笑い合うことも、打算ずくの男女関係を愉しむこともないだろう。
わたしが江田島の件で、したたかに殴ったあの日以来、咲子は前にも増して引っ込み思案で大人しい子になってしまった。
別に責任を感じるわけじゃないが……咲子は今、どうしているんだろう、とどうしても考えてしまう。
例えば、こうして大学のなかで、自分が一人であることを認識したときなどに。
咲子もわたしと同じで、大学の学生たちと全くうち解けることなく、こんなふうに孤独な日々を贈っているのだろうか。
咲子が女の子たちの友達と楽しく談笑している風景よりは、このわたしの現状のように、ひとりぼっちで学内をうろうろしている姿の方が容易に想像できる。
離れた場所に暮らしてはいるけれど……やはり咲子とわたしはひとりの人間なのだろう。
認めたくないが、どうやらそれは事実らしい。
ただでさえ憂鬱な日々が続くなか、それを思うとさらに嫌な気分になった。
第二外国語は、フランス語を履修した。
べつに深い理由はない。
語学のクラスではいつも、教室の後ろの方の席に、ひとりで座った。
教室に入ってくる学生の面子はいつも同じだったが、顔を合わせて挨拶するような間柄のものは一人もいない。
いや、男子生徒のうちの何人かには挨拶をしてくれる学生が居ないわけでもなかったのだけど、わたしがあまりにも冷たくあしらうせいか……やがて誰もわたしと口を効かなくなっていた。
それでも、授業はマジメに聞いた。
フランス語の担当教授は、まるでミイラのように干からびたおじいさんだった。
たぶん、フランス語以外のことは何も知らないし、興味もないのだろう。
人間的な活力や精力を感じることのできない、機械仕掛けのロボットのような人。
わたしはこの人のことが好きだった。
余計なコミュニケーションとは、無縁の人物だったからだ。
授業はあっと言う間に終わり、いつもどおり終業ベルが鳴る五分前に教授は授業を切り上げた……ばらばらと学生たちが教室を後にしていく。
その人の流れの中に入るのがいやだったので、わたしはいつも最後まで教室に残っていた。
誰もいなくなってからカバンを抱えて、一人部屋を出て、部屋の灯りを消す。
フランス語に限らず、どの授業でもそうだった。
わたしは、電気消し係の女。
しかし、その日は様子が違った。
わたしの背後に、何かの気配がしたからだ。
はっとして振り返ると……そにに、“それ”が座っていた。
決して大袈裟な表現ではないけれども…………
わたしには最初、“それ”がとても人間には見えなかったので、一瞬ギョッとした。
どんなときも他人に対して失礼な感想を持つのが、わたしの悪い癖だということはじゅうじゅう承知してるけど……
その一瞬の印象を包み隠さず言うとするのであれば……彼はその……
巨大なナメクジのように見えた。
……ひょっとして、わたしの方がどうかしてるんだろうか?
お坊さんのようにまるく剃り上げた頭。
そしてこれは剃っているわけではないだろうけども、眉毛はとても薄かった。
ほとんど肉眼では確認できないくらいに。
その下にある、ナイフで切った肉の切れ目のような細い目、つぶれた鼻。
唇は薄いけれども、これまた一文字に切れ込みを入れたような横に広い口……
その海坊主ふうの頭を乗っけている身体もまた、異様だった。
白いTシャツを着ているが、その中にこんもり詰め込まれた脂肪が、異様な形にTシャツを盛り上げている……
それよりなにより奇妙なのは、彼が全身にこってりと汗をかいているところだった。
確かに初夏の、暖かい日だったが……それにしてもその発汗量は尋常ではない。
顔や腕、露出している部分はぬめぬめと濡れ光り……白いはずのTシャツは、汗のせいでぐっしょり濡れて……
全体的に透き通っていた。
「……あ……」その男……ナメクジ男が口を開いた。「……み、南野って言います……あ、お……同じクラスの」
「はあ」
……つまり、この男は名乗っているわけだ。人間の名前を。
「……いつも……その、いつもひとりで、さ…………寂しそうですね」
ナメクジ男……南野がそう言った。
教室を飛び出して、一目散に逃げるべきだったろうか……?
まるで怪談話だ。
しかし、わたしの脚は、そうしなかった。
いつものように、感情が瞬時に身体に伝わらなかった。
「寂しそうだ」と言われたからだろうか。
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