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誰にも知られとうない 【1/5】

  

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この作品は実際に起こった事件をモチーフにしています。
ただ、生存者のプライバシー・心象に配慮し、個人名はすべて仮名に、
舞台となる場所も「大阪の下町」という以外は曖昧にしております。
生存者3名の幼さゆえに、この事実の醜さ、残酷さには胸が痛みます。
また、登場人物の日常生活、心理描写に関しては、西田三郎の創作です。

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  『みじめ』、というのははつまり『恥ずかしい』ということだ。

  悠也は13歳。コンビニ裏の細い路地で肩をすくめて待ちながら、それを悟った。

  コンビニの裏口のドアにはマジックミラーの窓がはめてある。そこに映る自分を見ると、思わず目を背けたくなった。

 痩せて、よれて、髪は伸び放題。
 目つきま で悪くなった。
 これではまるで野良猫だ。

  あまりにも『みじめ』を体現している自分の姿から目を背けると、路地の奥にいた本物の野良猫と目が合った。

 やせた、黒い猫が、Ωの 形になって毛を逆立て、悠也を威嚇している。

『ここはおれの縄張りや。出てけ』
 とでも言わんばかりに。

 思わず、野良猫を睨み返した。
 野良猫は目を逸らさな い。

 しばらく猫と睨みあっていると、不意にコンビニの裏口が開いた。

 
「待った?」出てきたのはこのコンビニでバイトをしている専門学校生だった。「ほら、これ」

  太った、ブサイクな女だ。
 女の手には、3人分の売れ残りのコンビニ弁当を入れた袋がぶら下がっている。

 「………ありがとうございます……」
 
「……お母さんとは、連絡ついたん? ……兄弟は、元気にしてる?」女の醜い顔には、はっきりと憐れみと陶酔が読み取れた。「……ちょっと、痩せたんと違 う? ……ちゃんと、食べてる?」

「……大丈夫です……イワサキさんの……おかげです……」悠也はもごもごと口の中で呟いた。「いつも……ほんまに……こんなにようしてもらって……すいま せん……」

「……何言うてんの」

 と、ブスバイト・イワサキのぽってりした手が悠也の肩に置かれる。

  びくっ、と悠也は身体をすくめた。

  自分の身体が物理的に汚れている、ということの引け目もあった。
  なんせここのところ、一週間に一度しか風呂に入っていない。
 
 しかしそれよりも、もっとリアルに感じたのは、他人に……しかも仮にも女性であるブスバイトのイワサキに、身体に触れられる、ということへの嫌悪感だった。

「困ったときはお互いさまやろ?……でも……」イワサキが眼鏡の奥の腫れぼったい目を伏せる「……そろそろ……これからのこと考えなあかんのと違 う……?……あんたのお母さん、たぶん帰ってけえへんと思う……残酷なこと言うようやけど……そろそろ……児童相談所に…… そろそろ相談する頃とちゃうか?……なんやかんやいうて……もう、1年になるんやろ」

「………」

  何も言えなかった。

  確かにそうだ。
 母が何の前触れもなく、悠也と妹のちあき、下の弟の卓郎を置いたまま行方知れずになってから、もう1年になる。

 それからは、何の連絡もな い。

 前にもこんなことは何度もあった……突然母が行方をくらませて、1週間、1ヶ月と、自分たちを置き去りにするようなことは。

 そのたびに、悠也はなんと か身の回りで、少しでも自分たちと関係のある大人たち……遠い親戚だったり、母の仕事仲間だったり、あるいは母の過去の男たち……その中には、自分の実の 父親も含まれていた……そういった連中に、理不尽なうしろめたさを感じながら小銭をせびり、なんとか生き延びてきた。

 あのときに感じていたうしろめたさの正体は一体なんだったのか、今ははっきりとわかる。

 屈辱、恥辱、情けなさ……そう、『みじめ』さだ。

 今や頼れる大人はみんな呆れて、誰も悠也に会いたがらなくなった。
 
 自分たちが呆れられたわけではない。
 母の自分勝手に呆れたようだ。
 
 そして、そのツケを息子の自分が……まだ13歳の悠也が払っている。

 こうやって毎日、コンビニの路地に決まった時間に立ち、この醜いデブのキモメガネ女子専門学校生に、憐れまれ、意味の無いアドバイスや、空虚で心のこもっていない、芝居がかった慰めの言葉をかけられ……

 それに対してはっきりと怒りも、不快感も 露にすることはできず、すべてを甘んじて受け入れなければならない。

  『みじめ』だ……ほんとうに、『みじめ』だ……。

  悠也は路地に吹き込むビル風に、心の芯まで晒されるような冷たさを感じながら、これまでもう何度も何度もうんざりするくらい繰り返してきた返答を、搾り出 すように声にした。

「……でも……それやと……ぼくら兄弟、みんなバラバラにされてまうんです……前にも言うたけど、以前一回……そうなりそうなことがあっ て……それは……イヤなんです」

 実際にあったことだ。

 最初に相談した自分の実の父が……たぶん、メンド臭かったのだろう……自分たち兄弟3人を児童相談所に丸投げしよう としたことがある。

 結局、そのときはすんでのところで母が帰ってきた……ケロッとした顔で。

 無責任、無責任、無責任……まったく、大人はみんな無責任だ。
  何一つ、よくしてくれたことがない。

 
「…………かわいそうに……」

 もう何度目だろうか?……イワサキの晴れぼったい目から、汚い汁が……あれは、泪と呼べる代物なのだろうか……が、“どばっ”っとあふれ出す。

 悠也はぐっと、吐き気をこらえた。

 あれは、精液と同じだ。

 2年前から自分が 覚えたオナニーの、最後に出てくる液体。
 ほんの一瞬の快楽のために、いわれのない罪悪感と羞恥感と虚無感を自分に思い知らせる、あの濃厚で不快なにおいの する、白濁した液体

 あれと同じものが、いまイワサキの醜い顔を伝っている。

 おぞましい、と悠也は心から思った。

 なんで、なんで、こんな女のために、残り 物の弁当をくれるだけのブサイクなバイト学生のために、自分はこんな目に遭わねばならないのか。

 と、その瞬間、イワサキが悠也にのしかかるように抱きついてきた。

 「ちょっ……」

 イワサキは悠也より上背があって、か細い悠也の身体はあっという間に肉の壁に包まれた。

  全身に鳥肌が立った。

 太っているせいで張り出した胸が、悠也の顔に押し付けられる。

 出っ張った腹が、ちょうと股間に押し付けられる。


 一瞬、その戒めから反 射的に逃れようとしたが、ボンレスハムのような太いブヨブヨの両腕が、悠也をしっかり捕らえて動くことを許さなかった。

「かわいそうに……かわいそうに……」

 ぎゅうぎゅうとイワサキが力を込めて、まるで押しつぶそうとでもしているかのように、悠也の身体を締め付けた。

 昔……ドキュメンタリー番 組で観た光景……アマゾンの大蛇が、山羊を締め付けている様子が頭に思い浮かんだ。
 
 「かわいそうに……ほんまにかわいそうに……こんな小さい子が……こんなかわいい子が……」

 イワサキの目汁が、首筋に押し付けられた。

  叫びだしたいような気分だった。
 ぶよぶよの腹に膝蹴りをくれて、この場を立ち去りたい気分だった。

 やろうと思えばできるはずだ………でも、できない。

 なぜ なら自分の手には、妹と弟のための、残り物弁当が入ったコンビニ袋がぶら下がっているから……。

 イワサキのバイトの休憩時間が空けるまで、あと数分……そう、あと数分、この腐れデブに好きなだけ自分を抱きしめさせればいい。

 目から汁 を流し続けさせればいい……悠也は自分に言い聞かせた。
 
  屈辱感、恥辱感、情けなさ……悠也はほんの数分前よりもっとはっきりと、自分が置かれている状況の『みじめ』さを 噛み締め続けた。

「……ただいま……」

  アパートのドアを開けると、散らかり放題のキッチンのテーブルの上にケンタッキーフライドチキンのパーティバレルがデン、と乗っかっている。

 一番下の弟の卓郎が口元を油まみれにして胸肉をむさぼり食っているのが見えた。

 「あ、兄ちゃん!!!お帰りーーー!!!めっちゃうまいで!!!!」

  伸び放題の髪で、両手に鶏の骨のかけらを持ち、薄汚れた服を来た卓郎の姿は……何と言うか……とても原始的で根源的な、“我々に近いが遠い何か”に見えた。

 卓郎は8歳。

 年齢のせいもあるが、厳しい現実を屁とも感じていない。
 顔は……卓郎の父親とそっくりだ。
 その父親は、悠也の父親とは別の人物だった。

 「……それ……どないしたんや」残り物の弁当が入ったコンビニ袋を左手に持ち替え、バレルを指差す。「……イソヤマのおっさんか?」

 「兄ちゃんのぶんも、ちゃんと残したーるから安心しーな!!!」

 卓郎が叫ぶ。

 と、ドアに背を向けて座っていた妹のちあきが、ゆっくりと振り向いた。

 「お帰り、お兄ちゃん」

 髪はずいぶん(ほとんど腰まで)伸びていたが……ちあきの髪は毎日きれいに洗われて、梳かされて、つやつやと輝いていた。

 ほっそりとした身体を包む服も、悠也や卓郎のように薄汚れてはいない。

 真っ白な肌、一重の切れ長の瞳。薄い唇と眉。

 どこか常に冷笑をたたえたようなちあきの表情は、最近とくに……悠也を怯ませた。

 ちあきは悠也より2歳年下の11歳。

 でも時折、自分よりずっと年上であるかのように錯覚することがある。

 ちあきの父親について、悠也はよく知らない……しかしちあきは、母に似ているわけではない。
 種違いとはいえ……自分の妹でありながら、悠也はちあきに対して、なにか他人であるようような感情を抱いていた。

 「それ……ケンタッキーやないか……どないしたんや……あいつやろ?……イソヤマのおっさんやろ?」

「うん。イソヤマのおっちゃんがくらはったお金で買うた」

 そういうと、ちあきは胸肉の解体作業に戻っていった。 
 まるで小魚から小骨を抜くような丁寧な手つきで。

 そして、悠也などまるで存在しないかのように、自分の世界に帰ってしまった。

 玄関のたたきにコンビニ袋をぶら下げたまま立っている悠也は、まるで自分がとんでもないマヌケになったように感じて……また、『みじめ』さがこみ上げてきて……思わず声を荒げる。

なんやねん!! おれがイワサキさんから弁当もらってくる、ちゅーてたんとやうんか!!!」

 一瞬、卓郎がビクっとしてチキンをむさぼる手を止める。
  しかしちあきは悠也に背中を向けたまま、微動だにしない。
 
「……これ、どないすんねん!!」思わず悠也は、たたきの上で足踏みしていた。「これ!! お前らの分までちゃんと貰ってきやんやぞ!! 弁当!! ……これは食べんでええんか!!!」

「明日の朝、食べたらええやん」

 ちあきが振り向きもせず言う。

  卓郎はとりあえずこの騒ぎは無視することにしたらしく、目の前の獲物をむさぼることにまた戻っていった。

 「……あいつからなんぼ貰うたんや!!!」

 「お兄ちゃん」ちらり、とちあきが肩越しに悠也を見る、刺すような冷たい目で。「……あいつ、とか言うたらあかん。イソヤマのおっちゃんは、親切な人やろ?……同じアパートに住んでる、っちゅーだけで、うちらとは縁もゆかりもないのに、うちらのこと気にかけてくれはってるやんか。お金はくれるし、お風呂には入れてくらはるし……ありがたいことやで。……そやから、イソヤマさんのおっちゃんことはそんなふうに言うたらあかん」

「……その金かて……タダで……」
 
お兄ちゃん!!!

 ちあきが振り返り、さっき以上に冷たい、厳しい視線で悠也を見据えた。

「……タクの前やで。しょうもないこと、ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ言わんといて。……いつまでもそんなとこに立ってんと、はよ上がったら?」

 「………」

 何も言い返せなかった。

 悠也はボロボロのスニーカーを脱ぐと、コンビニ袋を手にしたまま、卓郎ががつがつとチキンをむさぼり、ちあきがゆっくりと静かに胸肉を解体している食卓についた。

 散らかり放題のテーブルの中央に、デン、と置かれたケンタッキーのパーティーバレルの存在感せいで……3人分の弁当が入ったコンビニ袋を、テーブルの上に置く気にはなれない。

「イワサキさんが……お前らのこと……元気か、ちゅーてたわ……」

 ボソボソとつぶやく。

 「そう」ちあきは顔も上げず、突き放すように答えた。

 「……イソヤマの……いや、イソヤマのおっちゃんからは、なんぼ貰うたん?」

「1万円」ちらり、とちあきが悠也の顔を見る。「……これで、しばらくはなんとかなりそうやな」

 「弁当……」

 それ以上は言えなかった。
 何を言い返されるかは、わかっている。

 「……お弁当はお弁当でええやん。お兄ちゃん、これまでどおり貰ってきてーさ。できたら、缶詰とかカップラーメンとか、レトルトとか、そういう日持ちするもんのほうがええけどな……」

 「この弁当かて……イワサキさんがムリして……」

 怒りの感情を上手い言葉に表現できない。

 「別にイワサキさんはムリなんかしたはらへん。あの人はただのバイトや。その弁当かて、どうせ賞味期限切れで捨てるしかないやつを、分けてくれたはるだけや。あの人には、何の損もあらへん

 「そやから言うて……人の厚意を……」

 「イソヤマのおっちゃんかて、厚意やろ。何の関係もないうちらに、1万円もくらはんねんで。お風呂も入れてくらはるし……そやろ?」

 「………でも……イソヤマは………お前を……」

「お兄ちゃん」さらに冷たい声だった。「タクの前や、言うてるやろ(卓郎は二人の会話にはまったく無関心で、2つ目か3つ目のチキンにかぶりついていた)……ええやん。なんやかんや言うても、お金は大事やろ? うちがイソヤマさんとこにお風呂に入りに行ったら、お金がもらえるねん。これから寒なってくるやろ。服もいるで。電気代も払わんと、うちら凍え死んでまうんやで」

「……でも……あいつは……イソヤマは………」

 「よー言うわ」ふん、とちあきは鼻で嗤った。「……コンビニのイワサキさんかて、お兄ちゃんが行くから、残りもんの弁当分けてくらはるんや。うちや、卓郎が行っても、くれるんはお菓子とかプリンとか、くれるんはそんなしょーもないもんばっかりや。イワサキさんはな、お兄ちゃんやから弁当くれるんや。わかる? ……わかっとんねんやろ? ……イワサキさんがお兄ちゃんを、どんだけ気に入ってるかは」

 「……………」

  あまりの『みじめ』さに、怒りを通り越して泣きそうになった。
  そのせいで、出てくることばはもはやなかった。

 「チキン、食べーさ」

 ちあきが腿を一つ取り出して、悠也に手渡す。
  悠也はそれを手にしたまま、ぼんやりしていた。
 口をつける気にもなれず、何かを言い返す気もない。

「……ああ今晩、イソヤマのおっちゃんがお兄ちゃんも一緒にお風呂どうや、ちゅーてたで。うちとタクはご飯食べたら行くけど、お兄ちゃんどないする?」

 「ぼく、風呂キライや!!」

 卓郎が油まみれの口で叫ぶ。

 「あかん。あんた、たいがい汚いで。お風呂、入れてもらい。……お兄ちゃん、どないすんのん?」
 「……おれは、ええ」

 一週間、風呂に入っていないが。

 「一週間おきに入れてもらうんも、毎日入れてもらうんも、たいした違いあらへんのんとちゃん? ……まあええわ。ほなタク、お姉ちゃん先にお風呂入れてもらうから、1時間……いや、1時間半経ったら、イソヤマのおっちゃんの部屋においで。わかった?……グズったら叩くで!! ごはん抜きやで!!」

 「しゃーない、行くわ!!」

 卓郎が叫んだ。

【2/5】はこちら


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