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29歳になったので両親と姉との話を書きます。(DV/虐待/不登校)

ごきげんよう。青子です。
28歳になったきっかけにこのnoteを始めて、早いもんで1年です。先日2/26に誕生日を迎え29歳になりました。

今まで家族のことについては親しい人にもほぼ誰にも言っていないし、どこにも書いてません。自分語りが基本苦手なのと、非常に暗い話しかほぼないので全然笑えないからなーという感じで。

ただラスト20代の歳ということで自分でも記憶が残っているうちに一旦整理したいなというのも含めて覚え書きのように書いてみます。とても長くなりそうです。(暴力描写があるので苦手な方はご注意ください)

両親について

まず最初に私の両親、なんで結婚にまで至った?というほど私が物心がついたときからとにかく仲が良くありませんでした

というのも父も母も唯我独尊で我が強く、とにかく自分が正しい!他人に指図されるのがとにかく不愉快!という人でした。そんな人達が一緒になって上手くいくはずがないのです。父も母も家庭に向いてない人格でした。

歳が若干離れていたせいか母は父の言うことを聞いていたものの、本人が居ない際は私に常に父の愚痴を漏らし、家族みんなで団らんやワイワイなにかをするという記憶はほぼありません。小さい頃からおそらく母は父のことが物凄く嫌いなのだなと思っていました。
そんなわけで家族感は常にピリピリしていたと思います。

また両親共々とにかく気分屋なので、幼い自分が朝起きてまず何をするかというと父と母の機嫌が良いかどうかを確認することでした。常に両親の顔色を読まないと自分がひどく痛い目にあうからです。
私は父と母に虐待をされていました。

父の身体的虐待

プライドが高く我が強い父は、アメリカで大学院修士課程修了後・日本で東大を卒業し、医療技術系の大学教授をするほど優秀な人でした。専門書や一般向けの本も父名義で何冊か出しており、その分野ではそこそこ名の知れた人だったようです。
しかし、家では少しでも自分の意見に従わない者が居たら手や足が出て止められない人でした。

家族での夕飯時はNHKのみを視聴し、たまに別チャンネルを見るにはCMの際に必ずTVの音を消さないといけない(低俗だという理由でバラエティー番組を父は嫌っていました)。玄関の靴は必ず美しく揃え、食事のマナーは絶対に崩さない。
他にも家のルールは大量にあり、それは死守せねばならず、少しでも行儀の悪いことがあると全力で頭や顔を殴られました

小さな女の子が成人男性の拳で頭を全力で殴られるとどうなるか知らない方の方が多いと思います。
一日中耳はキーンとした音以外聞こえなくなり、目はパンパンに腫れて涙が止まらず、視界が揺れてしばらく立ち上がれずまっすぐ歩けなくなります。それも一発ではありませんでしたので、そうやって殴られるとその日はご飯もほぼ食べられず、痛みや恐怖で涙が止まらず眠ることもできませんでした。

他にも父の機嫌の悪いときにTVなどで笑っていると鬼の形相でやってきてウルサイと殴られ、お気に入りのゲームを繰り返しやっていると「俺が買ってやったのに同じものばかりするな」とゲームをその場で粉々に破壊され、外でも歩き方がおかしいと突然殴られ地面に転がりながら蹴られ続けたこともあります。
とにかく自分の常識外の存在を許容することができないのです。
一度家族で行ったディズニーランドで待ち時間の長さに父がスタッフに大声で怒鳴り、恥ずかしくて嫌な顔をする私に人混みの中で全力で頭を回し蹴りし、周りの人に警察を呼ばれかけたこともありました。
こんな調子でしょっちゅう街中の人とも喧嘩をしてる姿が記憶にあります。

父は母には決して手を上げませんでしたが、特に自分の子には容赦が無かったです。
普段「先生」と呼ばれ尊敬される存在であるストレス発散の一部でもあったのかなと思います。いくら外で優秀な人でも家の中では決して尊敬に値しない人物でした。

母の精神的虐待

母はとにかく子供が嫌いでした。実の子に事あるごとに「子供はみんな居なくなってほしい」「なぜ産んだのだろう」と何度も口癖に言うような女性でした。
「青子が産まれたときは全く感動しなかったよ」と笑いながら話してくるのは耳にタコで、成人後渡された母子手帳にも出産数日後には『とにかく1秒でも早く自立してほしい』と書かれておりました。(マジでなんで産んだ?)

また彼女は自分の機嫌が少しでも害されるともうその日一日は直ることがなく、父以上に顔色を見なければならず大変でした。
彼女の機嫌を害してしまうと私を居ないものとして一切無視をし、そんなときに私が何かがきっかけで少しでも笑顔を見せると遠くからずっと無言でこちらを睨みつけてきます。実の母から明らかに殺意のある目つきで睨まれると全身が震え何もできなくなりました。

そして本気でキレたときには首を締めて殺そうとしてきたこともあり、「テメェなんか居なければ良かったんだ!」という母の声は今でもありありと頭に再生されます。(泣き叫んでいた娘が何も言わなくなりぐったりするとさすがに不味いと思ったのかそれは未遂で終わりました)

もう一つ辛かったのは、子供である私に事あるごとに「罰金制度」を出し、約束したことを忘れたら100円、300円、500円…と何かやらかすと都度お小遣いを徴収しました
子供だったせいか月の徴収は結構な金額となり、おかげでお年玉は常に罰金でほとんど無く、青子の罰金で溜まったお金で食事に行くと笑顔で言われたこともありました。

姉の存在

私には4つ離れた姉が1人おります。この姉が私とは性格似ておりませんでした。

両親は非常に神経質で自分らが留守の際に私物が1ミリでも動いていたら「触っただろう!」と烈火のように怒りだす人たちだったため、その環境下で育った私も当たり前のように同じく神経質に育ったのですが、姉はわりとズボラで神経質さを感じないマイペースな女性だったのでした。(両親と比べた際の家族の中で、という基準なのですが)
おそらく彼女は母型の祖母の隔世遺伝だったのだと思います。

私はその姉の姿を見て「細かく気をつければ親からの鉄槌は軽くなるのに…」と思っていたので彼女のことが正直苦手でした
迂闊なせいで自分より遥かに両親から虐待される姉は全く尊敬などできず、とにかく"愚かな人"というイメージだったのです。

そんな姉に両親は容赦することなく、母は「早くあの子を施設に入れよう」と口癖のように言ってましたし、父は姉への暴力がひどく学校を休むこともしばしば。
私から見ると姉は家族全員から少し浮いていました。

居なくなった父

暴力を受けていたとは言え、私は父のことが好きでした。

母や姉と馬が合わなかったことや、次女であることの可愛さから父は私を可愛がってくれていました。お金はあったので高級そうなホテルディナーに私だけ連れてってくれたり、休みの日にキャッチボールをしたりどこかへ遊びに連れて行ってくれたりする優しい一面もあったのです。
その暴力を振るう大きな手は、機嫌を損なわせなければ私の手をギュッと暖かく握って一緒に歩いてくれたのです。

しかし、姉が高校に入ると大人びたことで彼女は母と少し仲が良くなり、母・姉揃って父のことが大嫌いだったため勃発した『さっさと父を追い出そう』企画の存在を私は知りませんでした。

中学一年生の私がある朝見たのは、母がラブレターを渡すかのようなウキウキした顔で父に手紙を渡す姿でした。
その手紙の中身をチラリと見た父は至極悲しそうな顔をし、その日から父は二度と帰ってきませんでした。

両親の離婚

母が離婚を決意したのは、高校になり反抗期を迎えた姉に父からの虐待がさらに加速化したからだったようです。
言うことを聞かないやつは暴力で支配する父に、それでも反抗する姉。

その日もいつもどおりの父と姉の言い争いからの父が姉を殴って蹴っての繰り返しでしたが、虫の居所が悪かったのか父は本気で姉を殺そうとしたようにも見えました。とにかく頭とみぞおちを狙って蹴っていたのです。ヒートアップする父に、意識を失ってぐったりとする姉。珍しく母が止めて終わりましたが姉は今まで一番重症で頭から血を流しており即入院。
父はどこかへ消え、母は姉に付き添ったため、その日は母方の祖母が来てくれましたが私はとにかく怖くて夜が明けるまでずっと泣いていました。

その一件から母は"このままでは娘たちが危ない"とやっと理解したようで離婚の提案を父へ。
父も特に異論は無かったのは、おそらく他にもう女性が居たこともあったようです。

しかしその後養育費のことで揉め、私たちに一銭も金を払いたくない父は即時に親権を切り、父親であることを瞬時に放棄しました。そして新しい家庭を持ったようです。
……私は父のことが好きでした。なのでこの事実がそれまで受けてきた仕打ちの中で一番辛く、今でも考えるだけで涙が出てきます。父からの愛など無かったのだと強く思い知らされました。ここから私は他人からの愛を心から信じることはなくなりました。たぶん死ぬまでずっとこうだと思います。

そこから自分の居場所もなく

学校生活のことはまた別途記事に書きますが、中学校は特に上手くいかず、そして家では勝手に父を追い出して喜んでいる母と姉が憎い。とにかく憎い!!

13歳の私には学校にも家にも居場所は存在しませんでした。
腹痛がするので学校を休みたいと毎朝嘘をつき、母が仕事に出かけ1人になるとご飯を食べることもなく一日中大声で泣いていました。何もかもが嫌で、とても寂しくて、誰も信じられなくて、どうしていいかわからない。

そうしてそこからほぼ3年間、引きこもりを行いました。身長は今と変わらず154センチですが体重は70キロほどあり、たまに外に出ればすべての人が自分を指差して笑っているように感じ、外に出ると一切呼吸ができなくなるという精神状態にまで追い込まれます。

そんな私を見た母が「あの子はもう一生就職も結婚もできない」と姉に言っているのを聞いてしまい、"私は死んだ方が良いのだ"と何度も感じ自殺未遂までしていました。

現在の母との関係

その不登校地獄編からどうなったかはまた詳しく起こすつもりですが、なんやかんや頑張って今になります。(めちゃざっくり)

現在、母には恨みはなく、非常に感謝しています
とにかく仕事人間なので父がおりお金があったときもバリバリ働いていたことが功を奏していたとは言え、女手一つで2人の女子を育てあげたすごい女性だと思います。
強い反抗期があり問題を起こしがちだった姉と不登校で未来がわからない私を抱えながら、私たちのために必死にお金を稼ぎ、家事をやり続けてくれた母は本当に素晴らしいです。

ただ母が私にしてきたことはもう取り戻せないことです。

父がいなくなった後、母は日に日に私たちに非道いことをする回数が減っていきました。
そしてある日大泣きしながら「施設に入れようなんて言ってごめん」と姉に謝ったことがありました。
……残念ながらそれを見た姉と私の目は冷めて、引いていたと思います。
姉の気持ちは知りませんが、私は『何を今更悲劇のヒロインぶっているんだ』と感じました。というか私にしてきたことも謝れよ、と。行き過ぎた躾は子供の心を酷く冷血にするのです。

その後姉が23歳で結婚し家を出たあと、数年間私と母は比較的仲良く暮らしていました。二人で旅行にも何度も行きましたし、お互いに向けての愛もあったかと思います。
私はここまで育ててくれた母には恩返しをしようという気持ちが強く、社会人になった初給料から主に金銭面で彼女に尽くしてきたのですが、今の私の旦那の助言で我々が共依存になりかけていたことに気づき、私も25で母の元を離れました。

彼女は今年59になります。もともと大の独り好きのためあまり連絡は取れていません。スマホは持っているのですが基本電源を切っており、何かあったときせめて電話はできるようにしろと何度も注意したのですが聞かないのでおそらく独りでひっそりと暮らしていたいのだと思います。
私の旦那や旦那の家族とも誰とも会いたくない・孫なんかいらない・姉からの連絡がとにかくウザいと言ってくる困ったおばさんです。
性格はかなり丸くなった彼女ですが、気分屋で自分勝手で我が強いのはきっとずっと死ぬまで変わらないのでもう自己責任で生きていってもらう他ないなと思っています。(たまに連絡がうまく取れたときは食事などには行ってます)

両親が私にもたらしたこと

昨年、「親ガチャ」が流行語にエントリーされていましたが、私はできればリセマラしたいくらいには親を全く尊敬してません。ガチャでいうとレアですが、幼いころからこんな大人にはなりたくないの代表が両親でした。あのような人格の人たちは親になってはいけないのです。(こういうこと言うと「親に向かってそんなこと思ったらいけないよ」勢に一定数対面してきましたが本当に糞食らえです)
なので「尊敬する人は両親です」「家族みんな仲良しです」を素直に言える人、正直ずっと羨ましく思っています。是非家族を大切にしてほしいです。

また、親から肯定されたり褒められた記憶がほぼないのでかなりしっかりと自己評価は低いし、いい大人になった今でも「自分には生きる価値が何もない・生きていても何も意味がない」とよく思います。

そして私は厳しい躾のおかげか15歳くらいのころから「育ちが良い」「上品」と言われ続けてきました。
ですが暴力暴言を浴びて育ったので、蓋を開ければ私という人間も根は外道なはずです。しっかり遺伝子には両親が組み込まれています。自分の常識外のことを許容できない性質もありますし、神経質です。そして暴力・暴言もやろうと思えばいくらでもできる気がしていて、普段はそれを抑えている気さえします。人は見た目ではわからないことの方が多いのです。

実は両親とも幼いころ、自身の親がDVをしていたそうです。
父は兄に比べ優秀でないことに両親から厳しい躾や暴力を受け、母はアルコール依存症の父親が母親に毎晩暴力を振るっていたとのことです。
暴力の中で育った二人も本当は心から両親に肯定されるような暖かい家庭で育てば違ったのだろうと思いますが、彼らもその家庭像は見てきてないので同じことが起こっていることに何の疑問も持たなかったのだと思います。産まれてからそれしか知らなかったんだから仕方ないし、これは必然的な結果です。
なので、私は子供を健全に育てることが難しいと思います。(今は特に子を求めていませんが)
何だかんだ私も他人には厳しいので、自分の子供にも度を越えた厳しさを発揮するだろうと容易に予測できます。きっとこれは呪いのようなものなので、私で断ち切る必要があると感じています。

さいごに

私の旦那は一人息子を持つ父なのですが、一緒に暮らし始めて驚愕でした。
理由は、『えっ!? 世の中にはこんなに優しくて明るくて楽しいお父さんが本当にいるんや……』です。子供につまらないプライドや幼稚な感情を持たない旦那は私の父とは真反対の人なので……。
そのおかげで結婚してからいかに自分が親と同じ嫌な人間なのだと実感することがよくあります。(私には義息子がかなり甘やかされているように見えるのでヤキモキすることが多かったり)
ですが、父とは違う彼のような人の隣を歩ける自分は本当に幸運だと思います。

そして最後に。
これは娘を持つ父親さんに伝えたいことなのですが……これだけボッコボコにされてきた自分が振り返って父からされて一番怖かったことは実は暴力ではありません

それが何かというと。幼い私たちが父の怒りを買うことをやらかし、「これは確実に半殺しにされる」と恐怖していたとある日。殴られると目をギュッと瞑った私たちが言われた、『今回は殴らない。代わりに体が成長をしたら胸を揉ませなさい』。これです。
とにかくこれが一番怖かった。指切るぞ!と人差し指に包丁を充てがわれたこと以上にです。幼い自分が感じた得体のしれない恐怖。文章を書いている今でも体が震えます。

父がどういう意図でこれを言ったかは謎ですが、その日はできれば殴られたかったです。姉も一緒にいたので、彼女の嫌悪に歪んだ顔も忘れられません。
異性の親から性的な対象として自分が見られているのかもしれないということは最大級の恐怖です。なので、たとえもし冗談であってもお願いですから、お願いですから、父親さんはこういったことを言わないでください。
娘にとっては相当なトラウマになります。(父親だけではないと思いますが私の経験はこれしかないので)


……最後に本当に余談。

その私の父ですが、以前興味本位で本名でググってみたらFacebookが出てきました。情報は非公開でアイコンしか見れなかったのですが、その写真には知らん赤子が写っており「いや腹違いの弟か妹かようわからんが産まれてるー!!」となりました。
そしてその赤さんを抱いた父は満面の笑みでしたが、"この子にも暴力を振るうのかな……"と。人は簡単には変われません。
父と再婚した女性、ついてないな……DV男は結婚してから豹変するんだよなぁ。名も知らぬ弟か妹よ、どうか幸せであれ。おわり


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