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見つめるべきはやっぱり生身の人間よね

ひょんなことから冨岡健翔さんを興味と愛玩の対象としてから瞬く間に1年。見舞う男、2/4ソワレ公演を観劇した。

女は記憶を失った。交通事故の加害者である男は女の病室に、 毎日通う……。最初は受け入れ難かった女の家族も徐々に、 男へ心を開いていった……。男は、 大手の会社員だった。良心の呵責で見舞う男を女の家族は不憫に思うようになった……。そして、 もう来なくても良いと告げる。それでも、男は、次の日も、見舞うことをやめなかった。毎日見舞うことで男と、 女の間に奇妙な信頼関係が生まれた……。やがて、 女の家族は、男が何故、 女を毎日見舞うのか、不審に思うようになる……。女の記憶が戻るのを女の家族たちは願った。だが、 男は女の記憶が戻らないことを願っていると呟いた……。 男は、 一体、 何者なのか。やがて、女は、少しずつ、記憶を、取り戻し始める……。

ジェットラグプロデュース.「見舞う男」. http://www.jetlag.jp/.(参照 2022-02-13).

舞台は病室。中心的な登場人物は兄、姉、事故に遭い記憶が一部欠損した妹アオイ、そして事故の加害者である藤原ハルタカ。
冒頭の会話は兄、姉と藤原を中心に進む。最初にメモに「テンポ感」「(姉を演じる十碧さんが、元)宝塚だよね」と書いた。初日公演ではないにもかかわらず、このセリフはこびの違和感はなんなのだ…。この時点ですでに作・演出の中津留さんの罠に見事にかかっていた。

物語はサスペンスとしての触れ込みだったが、実際は幸せや愛にとどまらず自己の正義、兄弟コンプレックス、歪な家族までもがテーマであるように思う。先述のセリフはこびの違和感、具体的には掛け合いの絶妙な成立しなさだったり、不安を掻き立てられるような間であったり、こそが彼ら家族のかたちそのものを表すのだと気づく。


『記憶喪失なのは私だけじゃない。お兄ちゃんもお姉ちゃんも私と同じ病気なんだよ。』事故においても人生においても被害者のアオイはいう。
妻を愛しながらも不器用でうだつのあがらない兄も、離婚し東京でのシングルライフを謳歌しているかのように見える姉も。自分の事しか考えず、都合の悪いことは割り切って捉える彼らはそれぞれがアオイに対しての加害者である。

しかし、主人公の藤原はアオイに対しての加害者ではない。事故の加害者として、自身の人生を投げ打ってでもアオイの幸せを祈り、彼女の人生を背負い、アオイにひれ伏し従う覚悟を持った、事故という鎖でつながれた奴隷。その事実に違和感も疑問もおぼえず、ただただ他人のために生きることを正しい、と判断している彼が少し現実離れしているかのように感じる。

客席の我々にも藤原の意図がいまひとつ掴み切れないないまま物語は進む。兄と姉は藤原に、実はふたりは付き合っていたのでは?とか、アオイのお腹のなかの子は藤原の子なのでは?と問う。それが当然だ。そうでなければ納得がいかないほど、なんなら気味が悪いほど、藤原はまっすぐで従順なのだ。

しかし藤原の心にあるのは贖罪と、他人を思い遣る心のみ。自分の事しか考えない家族と、他人の事…具体的にはアオイのことしか考えない、他人。その姿を見て、兄姉も思わず自らの在り方を問い、徐々に心を開く。

兄の『藤原が毎日見舞わなければ、毎日見舞いには来ていないかもしれない。家族らしく振舞うために毎日来ているかも』といった台詞であったり、姉が藤原と食事へ行っていたくだりであったり、そういったひとつひとつの小さな違和感…いや、心当たり、というべきか。それがむず痒く心にひっかかる。客席の我々だって、多くは兄と姉側の人間だ。寂しい実感、小さな絶望。だからこそ、客席も舞台上の人間も一体となってアオイと藤原をにこやかに見守るのだ。

そんな調子で和やかに終演…とはいかず、舞台終盤、課長の登場でこの物語は大きな転換を迎える。アオイに手渡される紙袋から小さくちりりん、と響くおもちゃの鈴の音色。よかった、と寂しい笑顔で崩れ落ち、他人のために生きていたはずの藤原は慟哭する。

正しくいること、自分の正義を貫くこと。とても難しいことだ。しばしば「大人になる」はその反対として捉えられる。「大人」として自分たちの生活を選ぶ兄姉。トラウマを乗り越え、自分の意思を持つことを決めたアオイ。そしてそんなアオイを意識せずに支えた藤原。
それが意固地と捉えられたとしても、自身の中で絶対に曲げられない正義をもち、その正義に則るために、自分の決断できちんと行動を起こす藤原を見て、アオイは心を動かされたのだろう。

コミカルなシーンで肩の力が抜ける小休止はありつつも、最後まで展開が全く読めないストーリーにドキドキし、終演後は「私は正しく生きられているのか?記憶喪失になっていないか?」と思わず考え込まされた。すべての展開が分かったうえでもう一度観劇したかったが、都合がつかず観劇できなかったのが悔やまれる。

冨岡さん目的で見たが、とにかく平体まひろさん演じるアオイの演技に魅了された。「記憶喪失で苦しむ」という、ともすれば過剰になりがちな演技を絶妙な塩梅で演じていて、意思がなかったあおいが徐々に自分の気持ちや決断に向き合い、口にできるようになっていくまでの流れが見事であった。
過剰な装飾やセットがなくても人は輝く。ずっと抑圧されていたなかで、それでも藤原に心動かされてした決断を思い出して口にする瞬間。小さく大人しいはずのアオイのもつ説得力が、とんでもない強さが羨ましくて、感動なのか、嫉妬なのか、不思議な涙を誘われた。

記事のタイトルは劇中の姉のセリフから。感染者が連日2万人近い東京。冨岡健翔さんの初主演舞台だったポンコツ武将列伝が上演されるはずで、代役とはいえ初主演の通りすがりのYouTuberが上演されたCBGKシブゲキ!!で、このセリフを聞けることの意味を考える。
渋谷の喧騒のど真ん中の、神妙な静けさをもつ劇場。正真正銘、今回の主演舞台が無事幕を下ろした場所。うん、やっぱり見つめるべきは生身の人間だ。舞台っていいな、推しが増えるっていいな、と心の底から思わされた2時間だった。

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