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感情のマネジメント

愛犬を亡くした直後は、悲しみの感情が強かった。当たり前といえば当たり前。

その後、「怒り」の感情を制御できなくなった。悲しみが大きすぎて感じることの少なかった感情が、ちょっとしたことで大きくなってしまいそれをコントロールできない。ほんの些細なこと、例えば小さく鳴らされたクラクションとか会話の中で発せられた失礼な単語とか。その程度のことで妙に腹を立てていた。

でも、考えてみるとそれほどの「怒り」に値する非礼はこの世にそれほど存在せず。クラクションは「通りますよ!」という意思表示。失礼な単語は言葉のあやで片付けられたりする。何も話が尊厳をおかすほどの重篤なものでもない。

愛犬の死という、感情の起伏を生じさせる事実があり。
受け止められる、られないを問わず現実として生じた以上は処理せねばならず。処理するため、気持ちに無理が発生し感情をコントロールすることが難しくなり。
でも、日々の暮らしの中で少しづつ、平穏を取り戻して行っている。

49日…亡くなった生命が極楽に行けるかの裁判を受ける日であり遺族が喪に服す期間でもある。…仏教徒ではないので常識として知っているレベルだけど(笑)。ただ、この49日という期間はよく設定されているなーと思っており。1週間、嘆き悲しみ。2週目は人間が本来持っている感情の何かが蘇り。3週目にはその感情の暴走の気配に苦しみ。4週目には空白を埋める何かを見つけようとし。5週目は日常生活をどうにか取り返せるようになり。6週目は失った生命のことを考える時間が減ってきた。7週目に入った今、心の中で涙を流す時間がほぼ無くなっており。愛犬がこの世にいないことが現実であると理解している。

自分の人生を生きなければな!と思っていた過去に対し、たぶん今は「自分の人生を生きている」に近い状態にはなってきている。一方で「ハレ」と「ケ」…つまり「よそ行きか日常か?」の比較でいえばまだまだよそ行きの感情を使って生きている気がしなくもない。

高尾山に短時間で登ろう!と思っていくことはあるが、パチンコで10万円勝ってやろう!とは思わない(もともとギャンブルしないけど)。出会い系サイトで若い娘と出逢おうとも思わないしよからぬ儲け話で人を騙してやろう!とも思わない(いや、これも元々だけど)。

本能に近い欲望に準じた行動をとるのはまだまだ先かも知れないけど、世間様に恥ずかしくないレベルの楽しみであれば問題なく選ぶことはできるようになった。

楽しいなんて、愛犬がいないこの世に楽しみなどあるのかね?…は大袈裟だけど、まぁ楽しみを見つけるのは非常に難しかった頃から比べかなり開放されてきているのが今。

山に登って汗をかき。
シャワーを浴びて昼寝して。
妻とビールを飲みに行き。夜の8時前に寝てしまう。…こんなささやかな週末の出来事=楽しかったりもする。

相変わらず5月27日に生まれた柴犬の女の子の情報をネットで調べて…「あぁ。この子じゃないなぁ。」と思ったりしてはいるけど。反面、もうそろそろ使用が解禁になる青春18きっぷを使ってどこに行こう?とかプランを練り始めている自分もいる。高尾山登山も4回続けておおよそ理解したから…次は鶴岡八幡宮まで徒歩で行ってみようか?など。

自身に何かを課す楽しみ方ではあるが、でも楽しいことを満喫しようという意思は普通に生まれ始めている。

5月下旬の自分には考えられないことだったけど。
今の生活における楽しみもそれなりに生まれてきているのは事実。お金をたくさん使うとか何かを買ったりするのではなく、ささやかだけど大切な何かができつつある。そんな日常。

愛犬の記憶はもちろん大切に。
でも、未来に向けてちゃんと生きていくこと。

愛犬の49日は明後日である。失った悲しみは未だ鮮明に残っているけど。
…でも、楽しかった記憶も少しづつ思い出すことができるようになった気はしている。

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