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キングヘイローと運命のこと

 私は大変な飽き性である。
 中でもゲームに関してはそれがひどい。所謂ソシャゲなど、長く続けられた試しがほとんどない。一か月残っていたらかなりのもの、一週間残っていればいい方で、大抵は三日くらいでアンインストールする。ビッグコンテンツであろうが、凝った作りをしていようが、関係ない。一通りの機能を触り終えてしまって、このゲームを再び開く理由がない、と思ったら、もう終わりだ。

 だから、私のスマートフォンに数年ウマ娘のアイコンが表示され続けているのは、いっそ奇妙と言ってもよい。
 時々ログインしない日が続くこともあるが、結局、先述の理由がまだなくなっていないのでアンインストールできないのだ。それがキングヘイローである。

 キングヘイロー。私は実際の馬についてはそれほど詳しくはない。従って、その名前を聞いて私の頭の中に浮かんでくるのはウマ娘のキングヘイローである。エメラルド色のドレス。いかにも勝気そうな顔。頼りなげな細い肩を目いっぱい反らして胸を張り、クラリネットみたいな声で高笑いをする。

 彼女は所謂レアリティの低いキャラクターなので、ガチャを回せば苦労なく出会うことができる。そもそもどのキャラクターも魅力的だからというのもあるけれど、正直なことを言って、『目立つ』キャラクターではない。私も始めは彼女のことをどうとも思っていなかった。どうして彼女を育ててみようと思ったのかも、もう覚えていない(ご存じの方も多いと思うが、ウマ娘は育成ゲームである)。

 ところがどっこい、育成した途端に彼女のことが大好きになってしまったのだ。
 以下、ストーリーの展開に言及するので、ネタバレを受け付けない御仁はここでスクロールをやめていただきたい。そしてキングヘイローを育ててください。



 さて、誤解を恐れず書くならば、キングヘイローは『才能のない』ウマ娘である。
 勿論、まるっきり走れないということではない。彼女は短距離走向きのすばらしい脚を生まれつき持っている。この資質ならある。ところが、彼女が望んでいるのは自分の得意な距離よりも長いレースを誰よりも速く走り、その名手だった母親に認められることなのだ。
 ステータスの伸ばし方を色々と工夫すれば望み通りにできないことはないし、そうでなくても先頭から数えて五番目までに入るくらいにはなれる。しかしながら、彼女が獲りたいのは一着である。彼女はある種の人懐っこさのようなものを備えていて、それゆえ母親や人々に認められたいと強烈に望んでいる。それなのに、率直に言って、その資質は彼女にはない。

 ストーリーはその前提で組まれている。
 彼女が獲りたがっているのは、GⅠレースと称される格の高いレースの中でも特に重視されている三つの賞である。このゲームでは目標とするレースで何着以内になるかという目標が決まっていて、それをクリアできなければゲームオーバーとなる。キングヘイローの気持ちとしてはどのレースも一着が目標なのだが、その全部がゲームのシステム上は一着を逃してもゲームオーバーにはならないように設定されている。それどころか、三つの内最後の一つは出場するだけで目標をクリアできる。やる気があるのは良いですけどね、と言われてるみたいだ。
 彼女はその間中ずっと、自分には『才能』があるのだと主張し続ける。母親からレースを辞めろと言われても、実際にレースに負けても、自分を担当しているトレーナーから指摘されるのを遮ってまで、ずっと言い張り続ける。
 そうして三つの大舞台が終わって、認めまいとしていたことは現実になって、彼女の前に現われる。自分には母親のような才能はない。勝ちたかったレースでは思うような結果が出なくて、もう二度とやり直せない。観客たちも最早自分のことなど気にも留めていない。
 一体どうしたらいいんだろう?

 ところで、彼女のモデルとなったキングヘイロー号という馬のことだが、2012年に日本中央競馬会のプロモーションとして放送されたテレビCMでテーマに取り上げられたことがある。
 彼は良血に恵まれた馬であり、実際ある程度善戦することもあったものの、長いことGⅠレースでは一着を獲れないでいた。そうして高松宮記念という短距離レースでやっと勝ち星を挙げた馬なのだという。
 それゆえ、このCMでのキーワードは『不屈』である。なにが得意かでなく、『諦めなかった』ことで名前を残したのが彼なのだ(というか、彼に関わった人々を含む共同体が、というのが正しいのかもしれない)。

 ウマ娘のキングヘイローもまた、それに倣って設計されているのだろう。
 『諦めない』という言葉は彼女の台詞やストーリーの展開にちりばめられている。彼女は結局、挫折の後で、彼女の奮闘を近くで見守ってきた友人たちに励まされて再び立ち上がる。彼女が『諦めない』ところを見てきた者からすれば、彼女が一着にならなくても、彼女の価値は変わりないと言うのだ。
 そうして彼女が選ぶのは、再び母親の後を追うことではなく、生来自分が得意な短距離走に挑戦することなのだ。

 私がキングヘイローを好きになったのは、この部分にやられたからだ。

 私は実のところ、『諦めない』という言葉にはそれほどいいイメージは抱かない。これを美徳とするのは危ういと子供の頃からずっと思っている。
 というのも、諦めなければいいというものではないと思うからだ。
 人間として一人でもやっていけるように、なんでも諦めずに克服するのがよろしい、という価値観は、昨今廃れたように見えるけれど根強い。自覚のあるなしは別にして、苦手なことがあるのは恥ずかしいことだし、食べ物の好き嫌いがあることは未熟さの表れで、辛いことに耐えて平気な顔をするのがかっこいいことだと思っている人は少なくないだろう。そんなもん大嘘である。苦手なことがあるとお互いに知っていれば補い合えるし、無理に嫌いなものを食べなくても大人になれるし、辛いことを続けると人間は神経を病んで死んでいく。なにかができないことは、なにかが出来ることと同じように、その個体を定義づけているだけだ。ドーナツだって穴があるからドーナツなのだ。
 勿論、なんでもすぐに諦めてしまえばいいと言うのではない。繰り返し練習して身につく技能もあれば、何度も考えて初めてたどり着ける結論もあるだろう。粘り強さは確かに力だ。人がより遠くへ向かいたい時、確かに支えてくれるものだ。
 だが、欠けた部分を埋めようという意識のもとで行われる『諦めない』は、人の心を蝕む。良いも悪いもない差異を取り上げて、自分はダメだと繰り返し言っているのと同じだからだ。その辺りの区別が大事なのだ。

 ウマ娘のキングヘイローは、件のシーンで、その区別をつけるようになったのだと思う。

 それまで、必死に『自分は短距離の方が得意だ』という事実を封じ込めて中・長距離走の才能を主張しつづけたのは、紛れもなく怖いからだ。本当のことだから怖いのだ。母のようになれないことが怖いのだ。彼女は自分を欠けていると思っているから、上塗りしようとする。
 彼女はそれをやめたのだ。
 やめただけだとお思いになるかもしれないが、実のところ、これにはそれなりに勇気がいる。実際、先述のような『あなたが欠点だと思っている特徴はあなたを定義づけているに過ぎない』という意見を伝えると即座に否定する方は驚くほど多い。『気を遣ってくれているんだね、どうもありがとう』という感じで。私が一体お前に何の気を遣うと言うのか、と思っても、それは通用しない。要するに、自分に欠けたところはないという概念が(あるいは私を、かもしれないが)信じられないのである。
 キングヘイローがそこを乗り越え、友人たちの言うことを素直に受け取ることができたのは何故か。恐らく、思いっきり挫折をした直後だったからとか、成績が振るわなかったので自分でも薄々気が付いていたから、というだけではないと思う。彼女は友人たちのことがとても好きだったのだ。だから、友人たちが上辺でそんなことを言うのではないと信じられた。正真正銘、彼女自身の生来備え持っているものである性根が、彼女を鞭打ちもしたし、彼女を立ち直らせもしたということだ。
 彼女は必要なものは最初から全部持っていたのだ。
 それはあまりに生身だった。私はそこに湿って柔らかい、それでいて力強いものを見た。彼女の中で世界が鮮やかに滲み、新しい形に塗り替わるのを見た。美しかった、というほかない。

 この後、ウマ娘のキングヘイローは短距離路線で活躍することになる。それからの彼女は、それまでの彼女よりずっと楽しそうに走る。
 自分にとって得意なことと不得意なことが生まれた時から決まっていて、そういうのを運命だというのであれば、彼女はそれに翻弄されていると言えるかもしれない。彼女が目標を達成できなかったと見るならば、運命は足枷である。
 だが、彼女が転換を迎えるためにその道のりを歩いていた、あるいは初めから転換などしなくてもよかったのだと考えれば、運命は寧ろずっと彼女の味方だったことになるだろう。

 自分に望ましい『才能』がないことを嘆く、というのは、人間の心の動きを描く創作物において長年繰り返されてきたテーマであると思う。少年漫画でより強くなるために長い修行パートが挟まるなんてお約束だし(もう旧いステレオタイプかもしれないが)、ラブコメディですら自分には濃密な人間関係を築く才能がないと思っている人の話だったりする。
 恐らく、人間の持ちうる悩みはどれも、根本的には何かが足りないという認識から始まるのだろう。
 そういう場合、『じゃあ方向転換しよっか!』という方向には目もくれずに、『努力して乗り越えよう!』という方向で話が進むことがよくある。『もう仕方ないね…死のうね…』みたいな展開になることもしばしばある。努力で運命を覆すというのは人間にとっては輝かしい夢で、だからこそ、それが自分にはできないと解った時の苦しみも一入なのかもしれない。
 まあそう思うならそうしてもいいのである。本当に行ってはならないことなど本来この世に殆どないと思う。けれども、私は人間の一番いい所はものごとについて何度でも定義できるところだと信じている。昨日嫌いだったあいつがいい奴だと解ったり、自分の団子鼻が丸くて可愛いと思うようになるかもしれない、そういうごく普遍的な力である。誰でも持っているはずだ。
 足枷をつけたまま走るのではなく、足枷などなかったと気が付く力をもっと大切にしたいと思う。

 そんなことを言って、本当に何も出来ることなんてなかったらどうするのだと言う方もいるかもしれない。彼女は結局短距離走の『才能』はあったんじゃない、と。
 馬のキングヘイロー号は高松宮記念以降は一つもGⅠレースを獲らなかったそうだ。当時から競馬ファンだった方が当時を振り返って書いた記事を以前読んだが、彼は『まあ、やっぱりなあ』という旨の感想を抱いたらしかった。再三書いているように私は実際の馬については詳しくないので何とも言えないが、その時は色々理由が重なってうまいこと勝てた、ということなのだろう。
 つまり、キングヘイロー号は物語のように覚醒したのではなかった。ほれみたことか、とお思いになっただろうか。
 だが、もしも彼がそこで覚醒していたら、ウマ娘キングヘイローはもっと別のキャラクターになっていただろう。そうなれば、私はキングヘイローを好きにはならなかった筈である。私だけでなく、彼女のファンはみなそうなのではないか。それどころか、キングヘイロー号のそういうところが好きだった人だっていたのではないのか。どういう形で転換が起きるかは誰にもわからない。ダメに見えたり、無駄だと思ったことが、本当に全くそうだったと言うことが誰に出来るだろう。
 そういう意味で、私にとっては『やっぱりなあ』という感じのキングヘイロー号がマスターピースなのだ。

 そういうわけで、私はキングヘイローが小さなスマートフォンの液晶の中で走るのを見るのが好きだ。そうして彼女の姿がこの世界の丸さを私に想起させる限りは、ウマ娘をアンインストールできないのである。

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