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お嬢様の紅茶豚

 『お嬢様生活復習講座』という本がある。
 これは題名の通り、俗にお嬢様と呼ばれる人々の生活習慣を紹介した本である。ここでのお嬢様というのは成金の娘のことではなく代々伝統を受け継いできた名家の娘のことを指す。本書の主題は、気品を育むのは丁寧な生活と良いものを適切に扱う経験であって、財産ではない、ということだ。

 さて、この本では、それほど真似するのが難しくない習慣もいくらか紹介されている。普段は香水を体ではなくてハンカチに吹いておくとか、アクセサリーなしに黒い服は着ないとか、安全ピンとか絆創膏と言ったものを持ち歩くようにしておくとか。
 私はこの本に出会った当時、情報はもう旧いけれどもその精神には現在に至っても見習うべき所があると考え、真似できそうかつ面白そうだと思った項目を実際に試してみることにした。そうして最終的に身について残ったもの、それが紅茶豚である。

 紅茶豚。
 『お嬢様生活復習講座』ではおもてなしの料理としてローストポークと共に名前が上がる。というか、名前しか書かれていない。私にとっては双方身近な料理ではなかったのだが、紅茶豚の方が何なのかよくわかんなくて面白そうだぜ、と思った。ローストポークはだってそのままだもの。
 文明の利器スマートフォンで調べてみると、あっさりレシピを見つけることが出来た。まだ料理にそれほど慣れていなかった私は、それほど難しい料理ではなさそうだ、と生意気にも思った。そして実際、それほど難しくなかった。更には味も良かったのだ。
 私はそれ以来、度々紅茶豚を作るようになり、都合の良いように色々にレシピをいじった挙句、最終的に諳で完成させられるに至った。

 必要なのは豚肉の塊と、紅茶の葉、醤油と酢と砂糖と酒だ。あとジップロックのような食品を入れられるビニール袋があるといい。タッパーでも作れないことはない。
 豚肉は肩ロースを使うのがいい。ロース肉でも作れないことはないが、脂と身のバランスを考えると肩ロースの方が向いていると思う。冷めた状態で食べる料理なので、バラ肉はちょっと脂っこすぎるかもしれない。私はいつも四〇〇グラム弱の塊を使う。煮る一時間くらい前に冷蔵庫から出して常温に戻しておく。

 まずは鍋に水を入れて火にかける。豚を入れた時にちゃんと沈まなければならないので、その辺りを考慮して水量は決める。
 沸くまでの間、紅茶の葉を用意する。普段飲んでいる茶葉か、コーヒー党で家に紅茶がないならスーパーで売っている安い茶葉を買ってくる。
 私はアッサムとかセイロンが好きで常飲するので、それを不織布のだしパックに詰める。大体ティーキャディースプーン二杯くらい入れる。グラムで言うと八から一〇グラム程度になる。ティーバッグなら一つあたり大体二グラムの茶葉が入っているそうだから、五つも入れればよかろう。
 元々参照していたレシピだとティーバッグ二つで作っていた筈なので、こんなに入れる必要はないのだろうが、景気よく使った方が仕上がった時に風味が残って旨いと思う。アールグレイあたりなら香料のことも考えてキャディースプーン一杯くらいまで減らした方がいいのではないだろうか。
 湯が沸いたら茶葉を放り込む。あっという間に湯が茶色くなるので、そうしたら肉も放り込む。私は肉を縛ったりネットに入れたりはしない。めんどくさいからである。
 そのまま四〇分、紅茶の中で豚を煮る。肉が冷えていると投入時に水温が下がってしまうことがあるが、この場合は再度沸騰した時点から四〇分をカウントする。途中水が減って肉が出てくるようなら水を足したり落し蓋をしたりするが、あまりボコボコ沸かないように火加減すれば放っておいても問題ない。

 さて、肉の方は放っておいて、タレを作り始める。
 醤油と酒と酢と砂糖を全て同量、小鍋に入れる。ビニール袋が用意できているならそれほどたくさん作らなくても構わない。それぞれ大さじ三くらいでよい。タッパーなら豚肉が浸かるくらい必要になるので、適宜増やす。この際の砂糖は上白糖で全く構わないが、気分でザラメで代えても旨い。
 注意してほしいのは、ここでは調味料をグラムではなく体積で計るということだ。元々参照していたレシピでは醤油と酢と味醂を合わせていたのだが、味醂が家になかったため、酒と砂糖を一対一で合わせて代用したところ問題なく旨かったのでこうなったという経緯がある。つまり、グラムで計ると砂糖の量が変わり、したがって味が変わってしまうのだ。
 さて、そうして合わせたものを火にかけ、一度沸騰させてアルコールを飛ばす。そうしたら火を止め、冷め次第ビニール袋やタッパーに移す。タレはこれだけである。

 後は、豚肉が煮えたら熱いうちにタレの中へ投入し、ビニール袋なら空気を出来るだけ抜いて縛るだけだ。一晩から丸一日冷蔵庫で寝かせておけば完成である。

 食べる時には冷えたまま薄く切って、好みでタレをかける。
 タンニンの為せる業なのか、肉は柔らかくそれでいて旨味は損なわれていない。紅茶の香りはふんわりと広がり、タレの酸味のある味付けが冷えている肉の滑らかな食感にまことによく合う。文句なしに旨いのである。
 マッシュポテトとか買ってきたベビーリーフとかそれらしい付け合わせを用意すれば、それなりに手が込んだ料理に見えるところもいい。実際には時間はかかっても手間は大したことはないので、豚を煮ている間や浸かるのを待っている間にも他の用事を済ませられる。なるほどおもてなし料理として名が挙げてある訳である。
 冷蔵庫に入れておけば一週間くらいは日持ちするので、作り置きのおかずとしてもいいし、インスタントラーメンなどの日頃の食事に加える具にも出来る。普通の叉焼のように扱っても馴染むのは味付けに醤油が使ってあるからかもしれない。私はいつも炒飯に入れる為に残しておこうと思うのだが、旨いので全部食べ切ってしまう。

 食べ切ってしまった後で、なるほど私はお嬢様にはなりえまい、としみじみ思う。お嬢様と呼ばれる人たちは、こんなに旨いものを自分ではなくて他人に食べさせるために作るのである。私には到底そんなことはできない。実際のところ、紅茶豚以外の合理的かつ優雅な習慣は全く身につかなかったので、そもそも適性がないのだろう。
 しかしながら、こうして料理を作って、独り占めしたいほど美味しいと思える自分が好きなのも、まあ真実なのだ。そういうのも悪くないよね。

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