2021/01/13

noteにアクセスしたら、重かったので、パソコンのメモ帳に書く。
書くことの他にもやらなければいけないことがあるので、そうした焦ったことをする。noteに書くのとどう違うのか、と言われたら、改行が空いていないところだろう。
そう言われれば、noteに書き始めたときにあの改行が特徴的に思えて、自分の言葉があわふためいていた。
行間を、なんの意味であんなに広くぽっかりと開けるのか。
今まで、文庫本とか、教科書とか本に書いてある文章ばかり読んでいたから、「正しい文章」だとは思えなかった。もっと言えば、言葉では表せない「空気」のようなものを広い行間が勝手に生み出していそうで嫌だった。
その反発として、noteによく投稿されている文章とは全く違うような書き方をしていたように思う。
文字数を多くしたり。
あえて改行を全部詰めてみたり。
逆に一行一行改行してみたり。
フォントをコントロールするために、エディタに文字を入力するのではなく、文字を書いた画像を貼って、好きなフォントで書いてみたり。
……本当に色々なことをやった。
これは過去のことではなく、現在進行形でやっていることでもあるので、「……本当に色々なことをやった。」としみじみと書いてはいるが、まだ反抗期の真っ只中である。
反抗期の親のように、noteは白いエディタをいつもと変わらずに私にそっと差し出してくれる。変わらないから反抗したのかもしれない。「いつもそのままでいる」ということに反抗したのかもしれない。だから、反抗しつつも私はnoteを認めていた。毎日毎日懲りることなく、文章を投稿した。noteの方も、あれこれもがいている私を、そのままでいることに反抗しているのにもかかわらず、それでもそのままでいた。お互いに譲り合ったことはない。
プラットフォームが、そこに投稿される文章の範囲を規定してはならない。一丁前に、そう言い放ってみる。私は何がいいサービスなのか、どうすればnoteがもっと良くなるのか全くビジョンを抱いていないが、生意気を承知でそう言ってみる。書くことにおいて、書く前に何が書かれるのか、何を書くべきなのか、何がいい文章なのか。そう決まってしまっていることほど退屈なことはない。自由に書きたい。なんでも書きたい。くだらないものを書きたい。
書いているうちに、noteは意外とそうした私の書き方を受け入れてくれるように思えてきた。特別に扱うことなく、ただ私の文章を世に放ち続けた。野放しにしすぎるほど、毎日毎日「だめ」と言わずに投稿させ続けてくれた。
さらに思うなら、私が私の書き方を知ることができたのもnoteに毎日投稿し続けたからである。だから、この書き方はnoteに教えてもらったものだとも言える。ありがとうnote。
……ここまで書いて何を書きたかったのか忘れてしまった。
そう、やらなければいけないことがあるのに、noteが重くて開けないという話だった。

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