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表現することの意味

書くこと、描き表すこと。それにとどまらず、歌うことや笑うこと。それらを何かの表現であるという。表現することとは、なんなのだろう。なぜ表現は必要なのか。表現はどこからくるのか。

「これは私が書いた文章だ」と、言ってみる。しかし、本当にそうか。言葉は、私のものか。この書くために使ったパソコンは私のものか。書かれて、読まれることにどれだけ自分というものが必要なのか。

おそらく、これっぽっちも必要がない。私が書かなかったとしても、この世界には文章であふれている。人間が書く必要もない。知能なんか持ち出さなくても、ランダムに並べられた文字列が文章であって悪い理由は一つもない。

にもかかわらず、私たちは書くという。自分たちで考え、手を動かし、現れ出たものを表現という。それは偶然に並べられた文字列と、どんな意味で違うのだろう。

表現を磨く。言葉を磨く。自分の書きたいこと、表したいことを掴み取るために人はもがく。それは一体何をしているのだろう。

言葉を磨く、などいうが言葉の方から見るとこれはおかしい。言葉は、誰に言われようが変わるはずがない。「りんご」は誰が書こうか、誰が言おうが「りんご」である。表現されたものも同じであろうと考える。作品のどこに作者の名前が書いてあるか。確かに作った人はいる。しかし、その人がその作品の作者である必然性はどこにもない。会ったこともない人の文章を読んで、私たちは感動することができる。さて、それを作った人は誰なのだろう。誰であらなくてはいけないのだろう。

磨かれるものがあるとすれば、それは言葉ではなくて表現するもの自身である。言葉は最初から変わらない。変わるのは、言葉を使おうとしている表現者である。

書こうとして、考える。心が動く、誰かのことを想像する。書くことの意味を考える。今まさに表現しているそのこと。その最中に、表現するものは言葉から、音楽から、笑うことから何かを受け取る。その対話の中に、「私が表現すること」の意味がある。その対話の中で、表現するものは磨かれる。

今まさに書いていること、他の誰でもなく私が書いていること。それが表現である。それが、独特であることや素晴らしくある必要はない。もっと深く、本当に表現しているとき、そんなことは考えていない。

ただ読むよりも書いてみること。ただ聞くよりも歌ってみること。本当に笑ってみること。それが最高に楽しいことだ。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!