ガラス工房所属小説家

トンボ玉でオリジナル作品を作り始めて数日が経った。名前が思い浮かばないので、「ネーミングの天才」とぼくが呼んでいる黒糖屋のショウさんに以下の注文をつけて、名づけをお願いした。

・沖縄らしい名前
・海に関連するもの
・天使に関連するもの

うーん、そうですねぇー、とちょっと首をひねって彼は言った。
「ニラカナなんてどうでしょう?」
「ニライカナイのニラカナちゃん?」
「そうそう、そうですっ!」
「超ナイスネーミング!」
男二人で、わははわははと笑いあった。

いま抱えている仕事はほかに、2月から始まる「ガラス教室」のカリキュラム構成と教科書作り、商品の名づけ、それぞれの商品に与えるストーリーなど。屋我は本当に面白いことを言うなぁと思ったのが、トンボ玉で作った屋我とぼくの作品を登場させた物語を書いてくれ、という。物語を考え、作ることが仕事になるガラス工房は、世界広しといえどもここぐらいしかないのではないか、と思う。名刺の肩書きも「広報」ではなく「小説家」にしよう、と言う。

おかしな名刺だ(笑)。

立ち上げの時期は大変だけれども、「何でもあり」といった勢いがあって本当に毎日が楽しい。「いまが一番幸せ」といえる日々を送っているように思う。「いつ死んでもいいと思うくらい幸せだ」と屋我は言うけれども、ぼくもまたそんな思いだ。ねじ伏せられ、痛めつけられ、苦しめられつづけた東京での日々。それとのコントラストがあまりにもはっきりとしている。あの日々があったからこそいまがあるのか、人生というものはマイナスだけではなく、こうして生きつづけ、もがきつづけていれば、やがて光の中に入っていけるものなのか。

沖縄は日本とは別の国だ、という認識はあったけれども、最近では「別の星」じゃないか? とさえ思うようになった。東京と沖縄を往復すること4年間、最初の「沖縄フィーバー」はとうに過ぎた。しかし、ぼくはこのガラス工房を取り巻く人の縁に心から感謝しているし、もうこれなしでは生活できなくなるだろう、という思いもしている。

18歳のときに屋我と会った。そのときにはこんな日が来るなんていうことは想像もしていなかった。頭の片隅にもなかった。しかし、少年時代に灰谷健次郎の小説・「太陽の子」を読んだときから、「沖縄」とはこんなふうに見えない太い糸で結ばれていたのかもしれない。

ぼくの居場所はここ以外にないだろう。

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