父と別れ、沖縄での新生活が始まる

昨晩はほとんど眠れなかった。午前4時ごろ携帯電話を見ると、2年前に別れた彼女からメールが入っていた。「東京に戻っているなら連絡をとりたい」といった内容だった。タイムスタンプは前日の夜9時。今日には東京を発つ。連絡を入れてもややこしいことにはならないと思い、「戻っていたけれども朝には東京を発つよ」と返事を書いた。すぐにメールの返事があった。睡眠薬を飲んでいたのでぼくの意識は朦朧としている。

そのあと電話で何か話したが、あまり記憶には残っていない。ただ、「ぼくがいなくなってしまうとオヤジが寂しがる。話し相手になってあげてほしい」と言ったのはかすかに覚えている。電話は穏やかに済んだ。


15時55分発の飛行機だったが、父が見送りにくるというので、電車ではなく、バスを使って羽田空港まで行くことになった。バスの便数は少ないので、午前9時には家を出なければならない。家を出る前に、父と朝食をとった。また「一緒に仏壇にむかおう」というので、仏壇に手をあわせた。父の背中が泣いている。つられてぼくも熱い涙を流した。しかし、これもお互い、隠しつづけた。バス停へ向かう間も、バスのなかでも、ぼくと父はほとんど会話らしい会話ができなかった。何かを話そうとすると涙にかわってしまうからだ。自然に溢れてくる涙を零すまいと、天井を見上げたり、顔をそらしたりしてお互いに隠し通した。でも、お互いに気づいてはいた。ぼくがまだ幼児だったならば、父に抱きつき、「行きたくない!」とか、「一緒に来て!」と泣き咽んでいただろうが、それをするにはあまりにも歳をとりすぎている。ぼくの闘病、そしてその克服、また父の闘病を通して、お互いに支えになりながら、この数年ぼくと父は人生のなかでも一番良好な関係を築いてきた。恐いだけの父でもなければ、反抗してだんまりを決め込むだけのぼくでもなかった。二人にとってすべてが満たされている。いや、満たされすぎている。だから、別れが恐かった。「これが最後になるかもしれない」という思いが浮かんでは消えた。


空港について工房の皆に土産を買い、父と昼食をとった。瞬間瞬間がいとおしい。ようやく少し話ができるようになった。「何度でも沖縄に遊びにおいで。気に入ったら沖縄に住んじゃおうよ」
とぼくは言った。現実には年老いた父が引越すことはかなりの重労働だ。現状、母がすべて背負うことになる。あまりにも可能性は薄い。
「耳がいまよりも聞こえるようになったらな」
と父は答えた。出発までの3時間を空港でコーヒーを飲みながら、このような会話にならない会話をぼくたちはつづけていた。父の写真がほしいと思った。ただあからさまに、写真に写ってくれとも言えなかった。空港のロビーでぼくはしばらく考えたあと、父に言った。
「プリクラ撮ろうよ」。
37歳の息子が68歳の父にかける言葉としてはあまりにも恥ずかしいものだったが、残された時間は限られていて、恥ずかしいとも言ってられなかった。


空港の1階でプリクラを撮った。
「2006年2月22日、羽田空港」
と字を加えた。


出発の時間が迫り、ぼくは「行かなくては」と席を立った。父はぼくの姿が見えなくなるまで目に涙を潤ませながら見送ってくれた。そのときの父の顔も、屈託のない幼児のような表情をしていた。


ほとんど睡眠をとっていなかったので飛行機に乗ったらすぐに眠ろうと思っていた。しかし、寝付けなかった。沖縄が近づいてくるにつれ、空は本当に幻想的な夕焼けを映し出していた。人間というものはこんな風景を見る幸せも持っているんだな、と感心した。しかし、息を飲むような美しい風景を眺めていても、あの父の、屈託のない幼児のような表情が頭を掠め、涙が流れた。


「もう、沖縄だよ」と自分に言い聞かせた。
泣いていてばかりではいけない。「ちむぐるさー」の文化を持つ沖縄の友だちに、このことで気を使わせては申し訳ない。タイミングがよかったと言うべきか、屋我は仕事で空港にはむかえないという。バスで読谷まで帰ることになった。バスのなかで父に何度かメールをした。
「うるさいことばかり言ってごめんね。何もしてあげられなかったよ」
と父。
「親孝行しようと思って帰ってきたけど、何もできなかったよ」
とぼく。
そして何度目かのメールで父はこう書いてきた。
「前進、前進! 大勝利、大勝利!」
ぼくも応えた。
「明るく朗らかに前を向いて、いま以上に幸せに!」。


沖縄は気温23度。
タートルネックを脱いでTシャツに着替えた。冬から夏へ。ぼくの沖縄新生活が始まる。

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