沖縄永住の覚悟

東京での仕事があるというので、この機会にクルマを東京から沖縄に送ることにした。父とは3ヶ月ぶりの再会だった。

朝、ぼくの車を運転して我が家まで父がきた。ぼくを起こすためだ。

ぼくにとって何よりも嬉しいことは、補聴器さえつければ、会話ができる程度に父の聴力が戻っていることだ。突発性難聴についていろいろ調べてきたけれども、このような例は他には聞かない。初めにかかった病院でも、人工内耳手術をしなければ聴力は戻らないと言われていた。

だから、沖縄にいるときに母から、父の耳が聞こえるようになったと聞いたときも、かなり疑っていた。しかし、実際に、この数日父と過ごしてきて、ほとんど支障なく会話ができている。その父が自動車を運転してくるとは、本当に嬉しいことだった。


甥っ子の存在が大きいと思うけれども、父は歳を重ねるごとに丸くなり、柔和な笑顔をいつも湛えるようになった。瞼の皺が増えたが、表情が幼児のように屈託がない。


睡眠薬が効きすぎている。
ますます薬の効果が高くなっているのは、ぼくも健康を取り戻してきているためだと思う。朝、父に起こされ、社会保険事務所へ出向き、障害年金申請の書類を受け取る。その足で、川崎港まで行った。ついてきても「意味はない」のだけれども、父もクルマに同乗した。


父の家系は短命だ。今の一瞬一瞬が「今世での最後の別れになるかもしれない」と思うと、胸が締め付けられた。東京でも生きていけるだけの空気と水があれば、親と離れ離れになることはないのだろうけれども、この真冬の東京の風に触れると自分の体が10倍にも20倍にも重たく感じてしまうことはいかんともしがたい。生きていくためにはやはり沖縄しかないのだろうと思う。

クルマは港へと近づいていく。ぼくがいない間に父はぼくのクルマを磨いたり、整備をしてくれていた。父の「足」を奪うようでなんだか非常に申し訳なく、せつなかった。高齢にもかかわらず、荷積みからなにまで父は本当によく手伝ってくれた。父もまたこの瞬間瞬間がいとおしいのだろう。お互いに「寂しくなるな」とは口にしないけれども、口にしないぶんだけ、寂しさは募った。


父は17歳のときに九州の片田舎から上京した。ぼくが生まれたときにはすでに亡くなっていた祖父が、父が上京する際に泣いていたのだという話をずっと昔に聞いたことがあった。その息子が今度は沖縄へ旅立つ。ロングステイではなく、永住を覚悟して、だ。


ぼくが東京へ行く前に屋我が、「行ったり来たり、出たり入ったりが大事なんだよ」と言っていたのを思い出す。東京と沖縄は、距離にすると相当遠い。しかし、その距離をものともしないような「行ったり来たり」ができる自由度。経済的にも、精神的にもそうした自由の「幅」が持てるようでありたいと思う。


港に着き、業者にキーと車を預けた。父と積んだ荷物、そしてクルマは1週間かけて沖縄に渡っていく。
「今まであったものがなくなると寂しくなるなあ」
と父は言った。「寂しさ」を口にできるギリギリのものが車だったと思う。父はそれを言って口をつぐみ、ぼくは目を潤ませた。

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