ハンビー食堂

ぼくが学生の頃、貧乏学生ご用達、といった感じで「大戸屋」があった。手頃な価格でちょっとした「おふくろの味」を食すことができた。しかし、何年前からか、この大戸屋は貧乏学生にはちょっと敷居の高いものになった。沖縄では国際通りに面したところに一軒ある。ここの鯖の塩焼きを好んでよく食べる。だが、読谷に住んでいて、ちょっと晩ご飯に鯖の塩焼きが食べたい、となると、わざわざそのためだけに那覇まで出るのは、難儀だ。先週の工芸市のときにお会いした読谷在住の詩人・野村さんと「食事に行きたいですねー」といって名前が出たのが「ハンビー食堂」だった。
「厚焼き玉子がおいしいんですよ」
「そうですか、鯖の塩焼きなんかもあるんですか?」
「ああ、ありそうですねー」
観光で沖縄にいる間は、もう二度と食べることができないかもしれないと、チャンプルーやらヒージャー、てびちなどを好んで食べていたが、ここ最近の美味いラーメン店漁りと並んで「和食」が食べたくて食べたくてならないときがある。年を追うごとに、沖縄には県外からの移住者、特に団塊の世代の移住者が目立ってきている(東京神奈川に次いで、沖縄の流入人口は増えているのだという。全国で3位らしい)。人間は食べ物に関しては保守的なのだというが、沖縄を生活の場として決めてしまったならば、もはや海ぶどうよりも、こうした東京で食べていたものの方が、ぼくにとっては魅力である。特に、ぼくのように怠けて自炊をしないような人にとって、そのハンビー食堂は魅力であった。

ハンビー食堂でたべてみたもの。

・鯖の塩焼き
・肉じゃが
・おしんこ
・じゃこのせ大根おろし
・きんぴらごぼう
・お新香
・ごはん
・豚汁

……結構量があったが、美味しくいただけた。食堂で働くおばさんたちの人柄も、なんとなく、日本のお母さん(うちなーのお母さん、ではなく。だが、名札を見れば、喜屋武さんとか、まさにうちなーのお母さんだったりするのだが)といった感じでほっとする。もちろん、移り住む大きな理由になっているのは沖縄にいる何人もの「恩人」の人柄に惹かれて、ではあるのだが、根はどこまでいってもヤマトゥンチュであるし、料理というものは、その料理そのものだけでなく、味にまつわるさまざまな記憶をも一緒に食べさせるものだと思うので、ぼくにとってつきあいの短い琉食よりも、ここは和食に軍配があがる。


久々に一本フリーライターとしての仕事をした。琉球ガラスに関することであったので「お茶の子さいさい」といった感じであった。だがそれをおもしろく思わない人も中にはいる。「泣かせることを書くねー」といったんは評価するものの、
「沖縄のことをネタにして自分を売っている」
だの、
「フリーライターじゃなくて、フリーターだろ?」
だの言いたい放題だ。たぶん本人的には悪気はないのだろうが、カチンとくる。医師の勧めで自宅療養していた期間はある。その間もライターの仕事はしていたが、たしかにその期間はフリーターのようでもあり、限りなくニートに近い状況でもあったろう(だが親の脛をかじったことはない)。現時点での収入は、望むと望まなかろうと、ぼくの学生時代にやっていたアルバイトと同程度の収入しかない。悪気はないのだろうが無神経、というタイプは特に4、50代の男性うちなーんちゅに多い。それは本土の人間から同じような扱いを受けてきたことの裏返しでもあろうし、アメリカ統治下の、大味な文化を受け継いできたようなところもあるのであろうが、もうちょっと、人としてなんとかならぬのか? と嘆かわしく思う。以前にも書いたことがあるが、またこれらの人々と「所有の概念」もあわない。「自分のものは自分のもの、人のものも自分のもの」という厚かましさに辟易することがある。ぼくを含めた内地の人間の「薄さ」に比べ、うちなーんちゅは濃いし、厚い。それは魅力でもあるのだが、彼らの所有の概念でそれをされると、まさに、「土足で踏みにじられる」思いがする。もちろん、その世代の全員が全員とは言わないが、ここに「壁」のようなものがあるのはたしかなことだ。「ないちゃーアレルギー」みたいなものはたしかに存在する。

……と、少々愚痴を。

しばらくこの暗闘はつづくのだろうなぁ、と思う。
この人がトラブルメーカーとなってこの半年ほど、よく引っ掻き回された。「和解」したいとは思っているのだけれども。非常に不快な存在だとは思うが、戦おうとは思わない。戦ったら、多分、ぼくの病気は再発するだろう。そうはなりたくない。だから、こんなときはハンビー食堂で食事をするのがいい。ちょっと幸せな気持ちが帰ってくるからね。

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