傷心の果てに東京へ帰る

部長さんはその後、難癖をつけたことを謝りに来た。潔い部長さんの態度にやっぱり沖縄はすごい、と感動したものだ。しかし、謝罪は形だけで、相変わらずLANケーブルは抜かれていたし、無視されるようにもなった。

ぼくの中でバランスが崩れ始めていた。うつ病患者のまま、社内では一目置かれる状況になった。これは負担だった。さらに部長さんからは無視されつづけ、仕事がやりにくいことこの上なかった。屋我の「拙速だよ」という指摘はその通りだった。テーマパークの仕事を終えると、毎晩酒宴を繰り広げている職人さんに交じり、ガラス創作についての話に耳を傾けた。たった数日テーマパークで働いただけだというのに、皆をとても遠くに感じた。

「沖縄だからすべてがいい、わけではない」ということをこのテーマパークでの勤務で痛いほど思い知らされた。部長さんとの軋轢でぼくは病み、小屋住まいから早々に1週間引きこもった。ガラス工房の職人さんたちが心配して「ニラカナさん、大丈夫?」と訊ねてきても、布団に丸まって寝ているような始末だった。残りの半年はそんなことの繰り返しで、いい思い出がない。

またこの時通っていたクリニックもよくなかった。沖縄には特措法があり、障害者手帳があれば精神疾患にかかわる医療費、薬代が国負担になる。ぼくはうつのなりはじめだったため、薬をいっぱい出してくれる医者はいい医者だと思っていた。ちょっと寝つきが悪いというだけで、どんどん眠剤も処方されるし、気分が悪いと言えば、山ほどの薬が処方された。屋我は見る見るうちに調子を崩していくぼくをみて、「ニラカナはあそこのクリニックに通い始めてからよけいおかしくなっている」とことあるごとに言っていた。しかし、病気をしたこともない人間が口出しするな、とぼくは聞く耳を持たなかった。

ハイテンションで沖縄入りをしたはずのぼくは、半年で弱り果て、小屋生活ができない人間になっていた。元の元気なころの自分に戻りたい、ぼくはそう強く願って、半年の契約を済ますと、1ヶ月はまたガラス工房で野宿し始めた。中途半端になっていたガラス工房のホームページも完成させた頃には、小屋生活はずっと過去の出来事のような気がしていた。

職人さんたちによって盛大にお別れ会を開いてもらった。
涙が出るほどうれしかったが、不完全燃焼のまま、沖縄を離れることには抵抗があったが、休職していた会社と決着をつけなくてはならない。ぼくは沖縄をあとにした。

カーフェリーで東京に戻ったが、東京湾の海の色をみて急に寂しくなった。




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