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ストロベリーフィールド: 第二十二幕 追われるもの

家の前まで来ると、花の香りがしたような気がして、ハンナは思わず立ち止まった。

ライラックの香りだ。

けれど、どこにも花は無かった。ハンナは辺りを見回してから、気のせいかと思い直し、重い気持ちのを抱えたまま家へと戻った。
さっきの夢のような映像のせいか、また頭が痛んだ。

やっぱりママの言う通り、今日は家でじっとしておくべきだった……。

パトラのところへ行くと言っていたハンナの母親は、夕方までは家にいないはずだった。
ところが、家に入るとすぐ、お茶の香りと火の温もりがあることにハンナは気が付いた。

誰かがキッチンで火を起こしていたようだ。

怪訝に思い、ハンナは耳を立てた。
ハンナの前に垂れさがった耳の上部が、ピンと上に立ちあがる。

人が歩く物音が聞こえる。しかもふたりだ。

あたりを伺うように身をかがめた時、祈りの部屋からママが出て来たので、ハンナは驚いて動けなくなった。

「ママ?」

「なあに? どうしてそんな顔してるの。ママの顔、忘れちゃったの?」

学校に行かず戻ったハンナにママは驚きもしない。
いつも通りの優しい笑顔だ。

これも偽物か、それとも戻って来ることも見えていたのか……。

ハンナが次の言葉を考えていると、ママのさらに後ろからパトラが顔を出したので、ハンナは再び驚いた。

「やれやれ、次から次へと、全く、厄介なことになりそうな匂いがプンプンするね」

パトラは、そう言うと、小さな瓶をママの前に差し出した。

「これ、あの子が目覚めたら飲ませておあげ。
ま、飲みたがるかどうかは分からんがね」

「でも、あの子、どうしましょうか?」

「あの家じゃ、今頃大騒ぎになってる頃だと思うがね」

ふたりが、ひそひそと祈りの部屋のドアの前で話していると、何かが祈りの部屋から飛び出し、ハンナの後ろを素早く横切って外に走り出ようとした。

だがそれが外に出ようと玄関ドアに近づいた瞬間、ドアは突然、自動で内開きに少しだけ、勢いよく、開いた。
ドン、という大きな音と共に、開いた扉に頭をぶつけたその物体は、玄関前フロアにばたりと倒れて動かなくなった。

パトラが知らんふりをして上を向いているのが、これがパトラの仕業であるという何よりの証拠だ。

倒れているものを見てハンナは驚いて声が出なかった。それがストロベリーフィールドでうずくまっていた子に違いなかったからだ。

「パトラばあ様! なんてひどいことを!」
ハンナのママ、ミチコが声をあげた。

「今、その子に外に出て行かれたら、あんたらどうなるかわかんないよ!」

パトラか珍しく声を荒げる。

そうして睨み付けるようにハンナのママに視線を送り、くるりと背を向けてまた祈りの部屋へと戻って行った。

見ると、ハンナの母は困り果てた顔でハンナを見つめている。

「ハンナ、ともかく、祈りの部屋へ」

「え? だって、きっと怪我してるよ。手当てしてあげないの?」

「いいから、早く」

ママは、倒れたままの子を抱え上げ、祈りの部屋へと入ろうとしている。

「ハンナも入りなさい」

「え……あの」

「いいから、早くお入り」

先に部屋に戻ってお茶を啜っていたパトラが、部屋の中から小さく声を発した。

ハンナは、部屋に入って行く母親の腕に抱えられている子をもう一度見た。そして、髪の下からちらりと見えたその子の耳を見て、ハンナは雷に打たれたように動けなくなった。

その耳の上部が、ほんの少しだけ、前に向かって折れ曲がっていたのだ。
ハンナの耳と同じように。

やっぱりそうだ……。

ハンナは、暖炉の上にある写真立てを見つめた。
この民族衣装のような服は、あの写真立ての中にいる人物が身にまとっていた服にとても良く似ているのだ。

深い緑色に、金の刺繍の装飾……そっくりだ。

ついさっき、夢か現実かわからないストロベリーフィールドで思い出したのは、五歳の時初めて見た、暖炉の上の写真だった。

自分がこの国の敵国の子供であることを知った日のショックは、ハンナには忘れようが無かった。

小さな子を見つめて動けなくなっているハンナに言い聞かすかのように、お茶を飲んで一息ついたパトラが落ち着いた低い声で呟いた。

「その子は……推測だがね、母親がグリーングラスの軍人だ」

椅子から立ち上がったパトラは、小さな子の額に二本の指をつけながら、何かまじないめいた言葉を唱えると、ママに向かって頷いた。

ハンナのママは、パトラに頷き返すと、ブランケットで男の子を包んでからクッションをいくつか並べたベンチの上に男の子を寝かせた。

「しばらくは目覚めないよ。さて、どこから話せばいいのかね」

パトラはハンナに向き直ると、面倒そうに再び腰かけてテーブルのお茶を飲み始める。

ハンナはパトラの「座りなさい」という声に従って椅子に座った。

眠ったままの小さな子と、目の前に座ったハンナをゆっくりと交互に見た後、パトラは俯き、吐き捨てるように呟いた。

「全く、血は争えないね。その耳。あたしには、あの戦いを思い出させるだけのもんだ」

ハンナは思わず自分の耳に手をやった。

「まぁ、でも、あんたには罪はないからねぇ。なんか意味があって、ここに来たんだろうさ」

ママは、眠っている小さな子の横に腰かけ、優しくその子の頭を撫でながら、何も言葉を発せずに俯いている。

まるで、これから先の話はパトラばあ様にお任せしますという風に言っているように見える。
パトラはお茶をまたひと口啜った後、長く息を吐きだしてから話を始めた。

「人生ってのは、予想もしないことが起きるもんなんだよ。友達だと思っていたのに、違ってた、なんてのは、予想の範囲内だ。大したことじゃない」

ハンナは、たった今、友人だと思っていた人達に裏切られ、打ちのめされてきたばかりだ。「大したことじゃない」と、言われたことに少しムッとしながらも、ハンナは黙ってパトラの話の続きを待った。

もしかして、今朝の喧嘩のことを、もうふたりとも知っている?……。

一体、どこで見ていたのか、どんな妖術を使ったのか、ハンナには見当もつかなかった。パトラは、ハンナの思いに気が付いたのか、言葉を続けた。

「さっきまでね、風の精霊たちが大騒ぎしながらここにやって来てたんだよ。一斉に興奮しながら話すもんだから、最初は何言ってるのか分からなくてね。順番に話を聞くのが大変だったよ。

あんたが、ストロベリーフィールドに入って来てるって、そりゃあもう大騒ぎさ。あの誕生会の夜からこっち、精霊たちに話をつけておいたからね。
おまえさんのことを遠くで見守ってたんだろうよ。

ハンナが泣いてたとか、大きな声で喧嘩してるとか、事細かに報告してね。さっきフィールドへ戻って行ったところさ。

さて、先に言っとかないといけないことはもうひとつある。
友達ってのは、十のうち三割くらい嫌なことを本音で言ってくれるもんだ。

相手が間違えたことをして、それでも、その相手とまだ友達でいたいなら、はっきり言うべきなんだよ、ハンナ。それで喧嘩しても、なんとなく仲直りできているのが友達っていうんだ。

耳障りのいい事ばっかり言ってくれて、いい事しか言わないとか、本心を言うと相手が傷つくと思って遠慮して言わないとか、嫌なことを言われたから相手のことを嫌いになるってんなら、そりゃもう最初から友達でもなんでもないさ。

相手を自分の都合いいように利用するだけの関係なら、いない方がいいってことだよ」

「でも……」

「自分の意見を持つ権利は、誰にでもある。見る角度で、出る結論も変わる。お前は、自分で考えた言葉で、相手に自分の気持ちを伝えるべきだ。
そのとき相手がどうするか、それを見て考えるんだ。

そうすることさえ面倒で嫌なら、それは、最初から相手を友達だと思っていなかったってことさ。それならそれで、別にいいんだよ。
別に無理して友達になる必要なんかない。

皆で仲良くしましょう。なんてのは、夢物語だよ。そんなことが出来たら、世の中から戦争や国境なんかとっくの昔になくなってるさ。

話がそれちまったけどね。要はお前の悩みは大したことないってことだ。
ほんとに友達にしたいんなら、一度ちゃんと喧嘩してからも仲直りができるか、これから自分の目で見てみることだ。
世の中にはね、本当に友達にしてはいけない人間ってのもいるからね」

ハンナは、あの激高していたニーナを思い出すだけで気分が悪くなった。
忘れかけた怒りの感情も一緒に蘇ってくる。

もう一度、ニーナやマルグリットと話なんてできるわけがない。
仲直りなんかできなくても、友達でなくても構わない。

ハンナは小さな子に再び目を移した。

「あの、この子は……」

「今朝、ストロベリーフィールドの結界がえらく揺れてね。飛んで見に行ったらこの子がいた。だから、連れてきたんだよ」

「え?」

ハンナは、さっき見たものは、やはり夢だったのかと、訳が分からなくなり始めた。

「あたしゃ、なんだかお腹が空いてきたんだけどね」

その言葉を聞いて、何か簡単につまめるものでも持って来ましょうと、ママは部屋から出て行った。パトラは、沢山食べるからできるだけ大盛りにしてくれと言い、ママが部屋から出たのを見届けてから、小声でハンナに話しかけてきた。

「いいかい。今から言うことは、あくまであんたの母親と精霊たちから聞いた話だ」

あらたまった様子のパトラの言葉に、ハンナはパトラを見つめ返した。

その時パトラが語った話は、大筋だけのものだったが、ハンナには受け止めきれない内容で、話を聞いている間も他人事のように聞こえていた。


パトラの話によれば、ハンナが生まれて間もない頃、グリーングラスでは王の命が度々狙われていた。
暗殺事件は何度も未遂に終わったが、ある時、隣国経由で入って来たウエストエンドの飲み物に毒が入っていたことがあった。

それがハンナの母親の仕業だと噂された。敵対する勢力の王族の者の妻であり、よそ者であったことや、不可思議な薬草を作っていた事が災いした。

それは勿論、でたらめな噂だったが、瞬く間に噂は国中に広がり、家族の身の危険を感じたハンナの父は、妻であるハンナの母とハンナを国外へと逃した。

そうしてハンナの父は、疑いを晴らし王への忠誠を示すため、隣国パンパスグラスへ赴いた。今では中立国、フラワーバレーの一部となっている領域だ。

ハンナの父は、隣国をグリーングラスの領地にしろとの王の命令に従って、戦地に赴き、亡くなったらしい。

その頃ハンナの母は、夫の言いつけに従い、まだ赤ん坊だったハンナを連れ祖国に戻ろうとしていた。だが村外れの結界から先には進めないと知ると、精霊に届くという青いインクで手紙を書いたのだという。

数日後、精霊から手紙の返信を受け取り、国境が月に二度、満月と新月の夜だけ開かれるということをハンナの母、ミチコは知った。
そしてある新月の夜、ハンナを連れようやく祖国に戻ることができてからは、身を潜めてユラ神から多くのことを学び続けた。

それが自分たちを守ることに繋がると信じたのだ。けれど、やがてハンナの母は千里眼を身に着けると、自分の夫の葬儀の映像を水晶玉の中に目撃してしまった。

その真偽を確かめねばならない。そう思ったハンナの母は、祖国に戻ってから僅か二週後、再び結界が解かれた夜、ハンナを連れて再び祖国を離れた。

その隙をついて、結界領域に入るために待ち構えていたグリーングラス軍の精鋭部隊がウエストエンドに乱入した。

そうして逃げるハンナたちには目もくれず、東の果ての国、グリーングラスの軍人たちは、ウエストエンドの城へと向かい、王を脅し、グリーングラスの属国とする書類に署名させることに成功した。

その日を境にユラ神信仰は廃止された。
国を滅ぼした忌み嫌われる疫病神としてハンナのママの親、つまりはハンナの祖母は投獄されたのだという。

長年の無理がたたり、もはや体力を失っていたウエストエンドの最後のユラ神は、その後間もなく亡くなり、そして一族は全てを失った。

何とか難を逃れ、国外へと逃げることができたものの、ハンナたちは今度はウエストエンドからも追われる身となった。実際に追われているのはハンナの母ではなく、ハンナの方だ。

ウエストエンドからは国を滅ぼした《呪われた子》として、グリーングラスからは、王家の血を継ぐ、反乱を企むものの末裔として追われることになった。さほど躍起になって追っては来ない所を見ると、大した危険性は無いとみられているのかもしれないとハンナの母は考えているらしい。


「まぁ、この中立国で、滅多なことはできゃしないがね」

パトラがここまで話した時、話の途中でママが焼き目のついた美味しそうなオープンサンドイッチとチーズガレットを持って来たので、話は中断した。

チーズガレットはハンナの大好物だ。ハンナのパパの好物でもあったようで、いつもその話をハンナは聞かされていた。
そのせいで、いつの間にかハンナにとってはパパを思い出す香りとなった。幸せな家族の香りだ。

「ちょうど、昔の話が終わったとこだよ」

「そうですか……。ありがとうございます。
自分がやってしまったことを話すのは辛くて……」

「じゃあ、あたしゃ、サンドイッチからいただこうかね。
こっからは、あんたが説明しておくれ。最期にあたしからまた伝説について話してやるよ」

パトラはそう言うと、嬉しそうにオープンサンドとガレットを二切れずつ取り皿に乗せて交互に頬張り始めた。

いつもは、あっという間に自分が平らげるガレットが、パトラの口に消えていくのをハンナは無表情のまま呆然と見つめていた。

(第二十三幕へつづく)


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