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ストロベリーフィールド:第十九幕 夢か現実か

空にそれぞれに色の異なる七色の蝶が繋がり、大きく広がってゆく。
激しく渦を巻く風のトンネルが、ハンナの身体の周りを取り囲んでいた。

トンネルは、竜巻のように長く長く、天高く続いている。
その長い風のトンネルは、地面から吹き上げているのではなく、天から地面へと吹き降りていた。

風のトンネルの外周に沿って空高く舞い上がっていた蝶たちが、その色ごとに一列になり、虹のような半円形の弧を描くと、やがて完全な円になって回転し始める。
と、そのはるか上空、風のトンネルの中央の天高く、銀色の ≪龍≫ が、舞うように轟音をたてながら突如姿を現した。

風がハンナの髪を大きく揺らす。
そして、その音に目覚めてハンナはゆっくりと目を開けた。

黄色い大きな月が、ハンナの視線の遥か遠くに見えている。
龍は、その月の白い光を浴び、うねりながら空を駆け抜け、ハンナを目掛けて下へ下へと降りてくるようにも見える。

ハンナは、その光景に見とれていて、何故か恐怖を感じてはいなかった。
そして、自分の身体が、地面と平行に眠ったような姿勢で浮遊していることに気が付いた。

ハンナは宙に浮いている身体を、少し傾けた。すると、その身体がふわりと方向転換する。勢いをつけすぎたのか、ハンナの身体は180度回転し、身体が完全に下を向いてうつ伏せの状態になった。下の方には、どこまでも続く海が見えている。

どうやら重力は普通にあるようで、ハンナの髪も、服も、下へ向かってなびいていた。

まだ夢が続いている……?

そうハンナは思った。

同じように宙に浮くような体験を、幼い頃、過去にした経験があるような気がハンナはしていたが、定かではなかった。ただ、全身にまとわりつくその重いような力が入らないような感覚だけは、身体がしっかり覚えていた。

今度は、恐る恐る体の腰から下だけを下の方へとまず曲げて動かすと、海水面側に向いて脚が下になった。ハンナは次にくの字になった身体の上半身をゆっくり上へと伸ばし、背筋をまっすぐにして、ようやく空中で立ち上がることができた。

そのままの姿勢でハンナが見上げた視線の先には、龍が同じ位置で停止しているのが見えている。

まるで、ハンナの姿勢が安定するのを待っているようだ。

その龍の優し気な雰囲気に、ハンナは吸いこまれるような感覚を覚えていた。ほんの一瞬、龍と目があった、ハンナがそう思った直後、龍はまた下に向かって、つまりはハンナに向かって滑空を始めた。今度は幾分その速度を緩めているようにも見える。

ハンナは、龍の方へと手を伸ばし、思うように動かない足で、空中を一歩、上へと這いあがろうとした。
が、ハンナの脚は、水中を歩くかのように重く、動かない。

もがくハンナのすぐ横を、いつの間にかハンナの身体のすぐ横まで降りてきていた龍が、ハンナに視線を送りながら脇をすり抜け海面へとさらに降りて行った。

ハンナの身体の幅の数倍はあろうかという見事な大きさの龍が、ハンナを避けるようにうねりながら、緩やかにすり抜けて行く。

全てがスローモーションのように動いているのだが、恐らくは数秒の出来事だ。龍が通り過ぎた後、吹き下ろす風は、再び激しさを増し、ハンナを押さえつけた。

龍が通り過ぎたその一瞬、その龍の輝く銀白色の身体が鏡のようにハンナの姿を映していた。

そこに移ったハンナの姿は、とても幼かった。

「ママぁ!」

驚き、戸惑い、ハンナは叫んでいた。
その口から出てくる声も、高くて、幼い声だ。

ハンナは、なんとか周囲の状況を把握しようと、必死に耳をぐいと立ちあげた。

途切れ途切れの悲壮な叫び声が、足元のはるか下の方から、絶え間なく聞こえ続けていることにハンナは気が付いた。
今度は足元から、龍が上にいるハンナを目掛け回転しながら突進してくる。

蝶の輪のトンネルの中を滑空していた龍は、再びハンナの横を通り過ぎると、やはりハンナのすぐ横をすり抜けて天空に登り、また再び真っ逆さまに垂直に降下を始めた。

そして水面ぎりぎりでくるりと身をかわし、天空へ向けて頭を上にして高速で再び風と共に舞い上がる。

そんな動作を何回か繰り返したのち、龍は頭を天に向け、水面に垂直に一本の長い剣のようになり、ピタリと動かなくなった。

龍の剣の後ろには、巨大な月が光輝いている。

その剣のような形を保ったままで、龍は水面に向かってまっすぐ垂直に倒れていった。
龍の一本の長い身体が水面に到達すると、海は真っ二つに叩き割られ、その二つに割れた水面から巨大な水しぶきが立ち上がり、大きな波が、両側へと次々に広がっていく。

水が飛び散った後、その中央部には下から台地が姿を現した。
龍は、更にその台地の深く下まで切りつけるように地の奥深く沈み、ついには姿が見えなくなった。

やがて両方の大地には轟轟と音を立てて深い滝が現れ始め、地面はどんどん左右に広がっていくと、やがて両岸が大きく離れてせり上がり、巨大なふたつの陸地となった。陸と陸の間には再び大きな海ができた。

そして再び深く潜っていた大地の谷の底から、白い光を放ちながら龍が垂直に立ち上がった。

月の光に輝く水しぶきを撒き散らし、龍は天空へと消えて行く。

頭上から降りかかる激しい水しぶきを避けようとして一瞬顔を背けたハンナの足元には、見る間に水が引いていくのが見えていた。やがて広大な畑が広がり、月は消え去り、明るい太陽の下、長い畝が出来上がっていく。

激しい轟音はもうどこにもなかった。繋がっていた蝶たちもいつの間にか、その姿を消し、凄まじかった風も完全に止んでいる。
広大な大地には、枯れた茶色い花の長い列だけがいくつも見えていた。

現実の世界では考えられない速度で、ハンナの目の前の映像は絶えず変化し続けていた。まるで早送りの映像のようだ。その映像を見つめていたハンナには、奇妙な違和感があった。

その早送り映像は、先に進んでいるというよりは、ハンナの目には、後ろに向かって、つまり過去へと進んでいるように見えたからだ。

奇妙な色を見せていた枯れた花々はどんどん美しく見事な赤い色に変わり、咲き誇り始める。すると今度は一瞬で、一面が緑の畑に変わる。
そしてすぐ、ビニールに覆われた土だけの畑に変わった。

花が咲いて、実がなる、その逆回転の映像をハンナは見ているようだった。
そしてそこが、フラワーバレーのストロベリーフィールドだということに、ハンナは気が付いた。

さっきまで水面から高い所に浮かんでいたはずのハンナの身体は、風に吹き下ろされたかのように、今はストロベリーフィールドの真ん中あたりに立っている。

ハンナは、もう一度空を見上げた。

そこには金に輝く星のような線状の光が小さく、高速で飛び去り、流れ星のように煌めいて消えていくのが見えている。飛行機雲にも見えるその銀色の細く小さな線の帯は、不規則に波打ちながら、消え去って行った。

呆然と立ち尽くすハンナのすぐ目の前に、今度は突然、長い鬣をなびかせた牛馬が現れ、瞬く間に去っていった。一瞬のことではあったが、その馬に乗る人物にハンナは見覚えがあった。

深い緑の軍服、大きな手、特徴のある耳、それは間違いなくハンナの父の姿だった。

その身体の前にはもう一人、大きなマントで父の胸に巻き付けられている人物がいた。その青い髪にも見覚えがあった。間違いない。ハンナの母だ。

ママ……。

ハンナが目の前で見た二人は、写真で見ていたふたりよりもずっとリアルだった。母親の年齢は、今のハンナとあまり変わらないくらいだろう。マントの下から見えたドレスは汚れてはいたが、全身が白いもののようだった。

目の前を駆け抜けたふたりの後姿をハンナは目で追っていたのだが、突然、何か音が響いた気がして、ハンナは後ろを振り返った。

後ろには何もない。が、音は響いている。

これは……虫の……羽音?

ハンナがそれに気づき辺りを見渡すと、ちょうど馬が走り去っていった方向とは逆方向に、沢山の精霊と虫たちが、ストロベリーフィールドの畝のぎりぎりのところで、一列になって羽ばいていた。

虫も精霊たちも、これ以上は進めないという様子でふたりの背中を見つめている。ハンナは、虫たちに手を振ったが、精霊も、虫たちも、ハンナには目もくれず、くるりと背を向けると、森の方角へと去って行った。

……わたしのこと、見えていないのかな……。

完全に無視されたことに軽くないショックを受けたハンナの耳には、いくつかの声が聞こえていた。遠ざかる虫たちの声を聞き取ろうと、ハンナは耳の先端をピンと立てた。虫たちの姿は、小さくなりすっかり見えないのだが、どうやら一緒に森の中を進んでいて、自分たちの居場所に帰って行くような気配だ。

森の中には虫たち以外の小動物もいて、木の上から声をかけ合っている。
ハンナの耳には、虫が四種類ほど、木の上の方に小動物が一匹、足元には同じく動物が二、三匹動いているような足音が聞こえていた。

先ほどまで数多く聞こえていた精霊たちの羽音はすっかり消えていて、森の中ではひとつの羽音だけが、ハンナの耳に届いている。聞き覚えのあるような特徴のある羽の音だった。

「どうだった?」

小動物の高い声が聞こえる。

「うん。無事に港に向かったみたいだ」

力強い羽音と同じくらい力強い安堵したような声が、ハンナの耳に届く。

「助かるといいけど……」

その随分と怯えた声は、きっと気の弱い動物に違いないとハンナは思った。
その傍から聞こえる落ち着いた声は、精霊の声だろう。

鈴が鳴るような声をしている。どこで聞いたかを思い出そうとハンナは記憶を辿っていたが、その後に続くよう様々な声がハンナの耳に重なり合うように届き始めたせいで、集中できず、思い出せないままでいた。


「きっと、大丈夫さ。龍が見守っていたからね」

「あいつ、随分大きくなったよな」

「龍のこと?」

「ああ、とんでもない奴だったけど、ちょっとはまともになってきた」

「あの娘、良かったね……」

「けれど、あの娘は……よそ者よ」

一瞬、静寂が訪れた後、森の生き物たちが一斉に声を上げ始める。

「龍と生きる世界に《よそ者》とかないさ」

「そんなこと言うなら、俺たちだって、龍にとっては《よそ者》だぜ」

「村の奴らや、葉っぱ色の服を着た奴らが、好き勝手に地面に線を引いて、線の外から来るもののことを、そう呼んでいるだけさ」

「そうよ、そうよ」

「私たちも、どこにでも行ければいいのにね」

「どこにだって行こうと思えば行けるさ、その代わりに、安全が保障されなくなるぜ。いいのかよ、鳥のエサになっても」

「それは……困るけど。何とか、鳥たちと仲良くなる方法は無いのかしら」

「そりゃ、葉っぱ色の服の奴らと、この村の奴らとの関係と同じくらい無理な話さ」

「この閉じた世界で生きることが、俺たちの定めだ」

沈黙が訪れた。そして、その沈黙を破るかのように、力強い声が響く。

「でも、不便すぎるよ! 次の契約の時には、村の中までは飛べるように、交渉しようよ」

「確かに、森の恵みだけを食べる契約は辛いよな」

「生き物のお肉って、美味しいのかしら」

「考えただけで恐ろしいからやめてよ!」

「だけど、葉っぱだって、実だって、生きているのよ」

「そうね、あいつらの耳には、葉っぱの声は聞こえないみたいだけど」

「そうだよな。俺、葉っぱかじる時、痛いから加減してくれって、凄い言われてるもんな。あいつらには聞こえないのか」

「だから、平気で踏みつけたりするんだな」

「確かにね、命を頂くって意味じゃ、葉っぱも動物も、同じじゃない?」

「そりゃそうだけどさ……」

「村の奴らは、生き物の肉も、木の実や葉っぱも両方食べられるように、俺たちとは違う造りになっているとパトラが言ってたぞ」

「そうそう。俺たちと違ってて、何でも食べられるような形の違う口の部品が天から与えられているんだと。でもパトラは、その部品が、もうあんまりないらしいけどな。だから俺たちが羨ましいって言ってたぞ」

「じゃ、それと違う俺たちには、その口の部品がないってことか?
それじゃあ、そもそも口に入れることもできないのか?」

「俺は、葉っぱは食えないぜ? まぁ、食いたいとも思わんけどな」

「え? 食べてみたいの? 例えば、こいつとか?」

「美味しいかな?」

「何だって!」

「やあねぇ。冗談よ」

緊張感が抜けた後の会話は、和気あいあいと楽しそうだった。ハンナの耳に動物と虫たちの笑い声がいつまでも響いている。

その姿こそ遠すぎて見えないのだが、その話を聞きながら、ハンナも一緒に微笑んでいた。が、その明るい声が一瞬、トーンダウンしたので、ハンナは耳をめいっぱい高く立ち上げた。

「ねぇ、ところでさ、パンパスグラスに埋められたものは、何だと思う?」

「根っこから引き抜くなんて酷いよ」

「パンパスグラスのやつら凄い叫んでたけど、奴の耳にはやっぱり聞こえてなかったみたいだな」

「ねぇ、パンパスグラスに埋められたものは、何だと思う?」

「……さあな。あの葉っぱ色の奴が、何を考えていたかまでは分からんよ」

「銃の腕前は、まあまあだったよね。網を振り回した時は、さすがに不格好で笑っちゃったけど」

「なかなかカッコ良かったわよ。顔も私好みだし」

「そうか? あの子を胸に抱えてピーピー泣いていた時なんて、相当カッコ悪かったよな」

「え、私、あれ見てすごく感動していたのに」

「だから、ご丁寧にあの子の唇の上に止まって奴の気を引いていたわけだ」

「それで最後には、葉っぱ色の奴の頭のど真ん中に乗ってたよね」

「そ、そんなんじゃないわ! あれが喉にちゃんと収まるようにしたのは誰だと思ってんのよ。ちゃんと仕事してたんだから」

「うん、あの指示は、わかりやすくて助かったわ」

「初めてで、どきどきしちゃったもんね」

「どうなることかと思ったよ」

「最後は、皆だって、あいつの頭に乗っかったじゃない!」

「だってさ……心配だったし」

「あの子の顔が、見やすかったからさ」

「それにしても、綺麗な空色の髪と瞳だったよな」

「うん、あいつらの仲間と話なんかできたのなんて初めてだからさ、ほんと驚いたよ」

「また、会えるかな」

「生きていたらね」

「……にしても、葉っぱ色の奴のところに連れて行かれて大丈夫なのか?」

「あいつら、前に、この村を燃やした奴らだろ?」

「そんな物騒な奴を、どうして中に引き入れたの?」

「だって、仕方ないだろ。他に適当なのいなかったし」

「ああ、そうだな。あのままじゃ、あの娘、どうなっていたか」

「そうね。やむを得ず入れちゃったけど。パトラに何て説明しようかしら」

「ほんと、いい子だったよなぁ。俺、何回も木の実を貰ったぜ。
まさか、自分は食ってないなんて思わねえもん」

「あんたは、食べ過ぎなんだよ」

「だって、そうしないと冬眠できねえだろ。お前だって、いつも頬っぺたをはちきれるくらい貰ってたじゃねえか」

「つまらない話、やめて頂戴。森の品位が下がるわ」

「ところで、トリクル。この後どうする?」

「そうね……まずは、あの埋められた場所を分からないようにしなくては」

「どうして?」

「あいつら、絶対に、あれを取りに戻って来るわ。目印を付けていたでしょ? あれは、またここに取りに来るってことよ。これ以上、森を荒らされてはいけない」

「でも、あそこさ、お祭りでいつも村の奴らが勝手に使うんだよな」

「今年も、いっぱいお裾分けくれたから、文句は言えねえな」

「困ったわね……」

「何かいい方法ないかな」

「この前来た、ほら、なんてったっけ、ビ……ビヨン……?」

「パトラが名前付けてた《経験者》(ビヨンド)のこと?」

「そうそう! やつらとか使って、何とかできないかな?」

「そりゃ、相棒のシールドっていう《守り人》次第だろうけどな」

「そうなの?」

「ああ、≪経験者≫自体、一人じゃ何もできねぇ」

「あいつらパトラと繋がってるからな」

「龍ともな」

「もう、みんな、龍、龍って呼び捨てにすんなよ。それは村の奴らが付けた名前だろ? 精霊って言えよ」

「やだ、あんなのと一緒にしないでくださる?!」

「その精霊、って呼び方自体が、村の奴らが勝手につけた名前だしな」

「……やっぱり、相談するならパトラしかいないと思うけど」

「だから、訳の分からない奴を中に引き入れちゃ駄目なんだよ。パトラが、いつも言ってるじゃないか」

「終わったことを、何回もごちゃごちゃ言うなよ。
そんなこと、トリクルだってわかってるさ」

「そうだよ、あの娘があのままだったら、大変なことに……」

「あの、同じ話が回り続けてない?」

「どうする?」

「どうもしないさ。運命なら従うべきなんだよ」

「そうだ、命はいつか終わるんだ。俺たちだって、村の奴らだって、何世代も繋がってはいるけど、形は似てるけど、みんな同じじゃない」

「へぇ、驚いた。あんた、たまにはまともなこと言うのね」

「俺は《経験者》だろうが、《守り人》だろうが、パトラだろうが、信用はしないぜ」

「パトラだって、いつかはいなくなるもんな」

「俺たちよりずっと長くこの世界に居るけれどね」

「じゃあ、その時が来たら、私たちの声は、誰に伝えればいいのかしら」

「きっと、パトラと同じ形で、同じではない誰かさ」

「あの子が戻ってきたらいいのにな」

「トリクル、どう思う。あなたもいつか消えるの?」

「この世界に変わらないものなんてないわ」

「この、あいつらが作った精霊の領域も、もう殆ど残っていないものね」

「消えた世界だらけになって来たよな。俺たちもいつまでいられるかなんてわかんないぜ」

「共存する世界があるだけ、今はまだましよ」

「共存、って……奴らが勝手にそう呼んでるだけだろ。迷惑な話さ」

「俺の夢なんだ。トリクルが話してくれた世界。共存とは違う」

「私の夢は……もっと小さいんだけど。四つの違う季節を全部見ること。
絶対に叶わないけど」

「秋生まれは、過ごしやすいだろ? 何が気に食わないんだ?」

「……暑いっていうのがどんなのか、体験してみたかったの」

「次の、次の代が体験してくれるよ」

「そうね、次の次の代も、その次の代も、あの畑で飛んでもらわないと」

「まったく、厄介な契約を、パトラとしちまったもんだ」

「厄介で、安全で、幸せな約束だよ」

「共存が、か?」

「ねぇ、いつか、パトラと同じ形の、同じではない誰かが、ひとりもいなくなることもあるのかしら」

「そんな日が、来ないとは言い切れないね」

「現に、もうほとんどの奴らが、俺たちの声を聴けなくなっているもんな」

「なんだか、淋しいわ」

「それが運命なら、従うしかないさ」

「さぁ、山に戻りましょう。特に眠りたい者は、早く戻って。また春にね。何かあったら精霊の谷へ連絡して。その時は、くれぐれも、森の小さな種族に失礼が無いよう注意してね。私はパトラに報告をしてくるわ」

「あのちっこい奴ら、賢いし、怒らすと厄介だからな」

「トリクルも気を付けて」

「ええ、ありがとう」

「長いこと、雨雲を止めてくれてありがとう。助かったよ」

「御礼は私にじゃなくて……」

「龍に?」

「ええ」

「残った仕事を押し付けてごめんよ」

「気にしないで、さあ早く行って。陽が落ちるわ。皆、ありがとう」

「じゃあね」

「またね」

「また春にね」

「私はもう二度と会えないけれど、次の代の子たちを宜しく」

「まかしておいて、今日のあなたの勇姿を語り継ぐわよ」

「さようなら」

「さようなら」

「穏やかに眠れますように」

「また森に帰れますように」

「ごきげんよう」

幾つかの羽音が激しく交差しあい、藪の中を小動物たちが歩く音が聞こえた後、ハンナの耳には何も聞こえなくなった。ハンナは立ちあげていた耳を、ゆっくりと下ろして閉じた。

耳を閉じると同時に、暖かな夕暮れの景色が突然変わり、辺り一面が横殴りの猛吹雪となって、ハンナは急に目も開けていられなくなった。

小さく縮こまって、少しでも風をよけようとハンナはその身体を地面に横たえた。

寒い、寒い……。

ハンナが心で叫ぶ。と、また突然、ハンナの目の前は真っ暗になった。
そしてハンナは、突然途切れた映像にはっとして、飛び起きた。


(第二十幕へつづく)


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