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スターまる 第3話 作品解説

第3話も無事に描き終えることができた。また一歩作品に踏め込めた気がする。
第1話を描き上げたときのような爆発的な興奮もなくなって、周りの反応もわかってきて、
作品づくりがある生活、というのもわかってきて、全部が現実に落とし込まれた上でもまだまだ描ける。そのうえで今後どういう気持ちで作品づくりと一緒に生きたらいいかな?っていうのを考え始めたのも第3話からだった。

ページ1:心が砕ける

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ヨナが言ったことでマルが怖くなったというよりは、ヨナの呼びかけをきっかけとして、自分の悲惨な状態に気がつきはじめた。あるいは、ヨナの呼びかけのタイミングと、物語では描かれない「外の世界」で、マルになにか絶望的なことが起こっている・・・という想定をしている。
マルの宝石の涙は、普段からこぼれ出ては砕けて…を繰り返しているが、壊れていく心の演出として、強調してみた。

私自身は30代にクリスチャンになったので、社会で自分が使っている言い回しと、教会に集っている人々(“集う”という言い方もクリスチャン的だと思う)の言葉遣いがたびたび違うことが新鮮だった。

「砕かれる」という言葉もその中の一つで、「心が折れる」とニアリーイコールでありつつ、クリスチャンは「心が砕かれる体験」を畏れながらも受け入れている側面がある。聖書にも度々登場する荘厳さをもった表現である。

[イザヤ書 57:15]
  いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、
  その名が聖である方が、こう仰せられる。
  「わたしは、高く聖なる所に住み、
  砕かれた人、へりくだった人とともに住む。
  へりくだった人たちの霊を生かし、
  砕かれた人たちの心を生かすためである。
聖書 新改訳2017

とはいえ、まだ神様に立ち返っていないマルにとっては、心が砕ける体験は、文字通りの絶望でしかないのかもしれない。

ページ2:生き抜くための変化

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状況を切り抜けるために、一度あるべき心の形を変えるマル。このエピソードでは、「体がクラゲに変わってしまう過程を、気持ち悪く描きすぎない(ホラー作品ではないので、シンボル的に伝わればいい)」よう配慮しました。

ページ3:クラゲを表現する

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クラゲも水(海)もほとんど描いたことがなかったので、Pinterestで資料をさがしまくって描いているけれど、作品の雰囲気と調和させるためにはどんな技巧の資料を手に入れたとしても正解がない、ということを改めて思い知った…。

第3話から、4ページ区切りで仕上げることにしているので、クラゲと海を描きすぎて、げんなりするのを防げた。

ページ4:天国への懐かしさ

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クリスチャンになる前、聖書を読むきっかけになった出来事の一つとして、「天国(自分のたましいの故郷)がある」と確信に近いものを得たけれど、次には、「今の自分では天国に入れない」という実感が湧いてきた体験がある。

ページ5:神の前に立つ

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結局の所、ページ4でのヨナの思いはまちがっていたけれど、それはヨナに与えられている「世界についての情報」はほんの一部だからである。

ここで重要なのは、全力で間違っているとしても、神の前に大胆に近づくことができるヨナの信仰だと思っている。

ページ6:「種を蒔く人のたとえ」から

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サブタイトルにもあるように、マルと種のエピソードは、マタイの福音書13:3~23、ルカの福音書8:5~12から着想を得ている。(本来の聖書解釈を忠実に反映しているわけではない)

[マタイの福音書 13:3〜8,18〜23]
イエスは彼らに、多くのことをたとえで語られた。「見よ。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いていると、種がいくつか道端に落ちた。すると鳥が来て食べてしまった。また、別の種は土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種は茨の間に落ちたが、茨が伸びてふさいでしまった。また、別の種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。
____中略____
 ですから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。
だれでも御国のことばを聞いて悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪います。道端に蒔かれたものとは、このような人のことです。また岩地に蒔かれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
茨の中に蒔かれたものとは、みことばを聞くが、この世の思い煩いと富の誘惑がみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」
聖書 新改訳2017

私は20代のとき、挫折からの立ち直りのただなかにいて、好きなことや興味のあることばかりしているはずなのに、一つの場所に留まれない、どれだけ夢中になってもしっくりこない、所在がない、という感覚がつきまとっていた。
 種を植えるべき場所すら見つからず、ひたすら安住の地を求めて荒波に揉まれているような感覚だった。

ページ7:「これでよかった」と言えるか

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ヨナが虹の方から召命を受けたとき、夜明けが始まる。状況の深刻さの中にも希望の光があり、それを信じて一歩ずつ進むことで開ける道がある。

そうは言っても、私はヨナのように、短時間で「これでよかった」と持ち治せるタイプではないし、頭では「これがベスト」とわかっていても、受け入れるまでに数ヶ月とか、年単位かかることもある。

ページ8:キャラクターの視点

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ヘタの横好きという言葉もあることだし、経験が少ないうちはとにかく迷わずどんどん描き進むことにしている。
 それでも、下書きが完成し、コマ割りもこんなもんでいいかと思っていても、本番で「セリフが変わる」ことが起こる。自然に、キャラクターの視点に一歩踏み込んで描くことになるから。あと、読者にとってもっとやさしかろうと思われる表現にしてみたり、「あれ、それ」という表現や、イラストでわかることをセリフで表している部分を刈り込んだりしている。

ヨナが「種になっちゃったマルで遊ぶ」のも、後半になって思いついたことで、ヨナには「絶望」がないから、ただ存在することしかできないという最低限な心に寄り添うときも、ヨナはヨナでいることをやめられないのである。

種やクラゲなど、最低限な状態を表すキャラクターを、愛着を持って動かすということは、手塚治虫先生の作品から影響を受けている気がする。

ページ9:4ページごとに仕上げることでの変化

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これまで12ページをひと塊として「ネーム → 下書き → ペン入れ → 塗り → セリフ・漫符入れ」を行っていたが、第3話からはその作業を4ページごとに刻んで行った。

結果、12ページのなかで山場を作っていたのが、4ページの中で山ができるようになり、作業中の「谷(ダレ)」も浅くなった。そうでなければひたすらクラゲと海を描く作業を、新鮮味を持って乗り越えるのは難しかったかも。

ページ10:クラゲが征服し始める世界

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高いところを目指して折り重なるように登っていくクラゲたち。クラゲたちのエピソードはスピンオフとして4コママンガにまとめました!

10ページからラストに向けて、「ヨナの優しさ・愛」にフォーカスしていく。

ページ11:種として状況を委ねる

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自分の20代から30代を振り返ると、結局のところ10年くらいは落ち着く場所が見つからなくてさまよっていたけれど、結果的に良い場所に種を植えることができたと思っている。10代のときなど、周りの大人でも、「自分のやりたいことや、定職がみつかったのは30歳過ぎてから」と言ってくれる方々が多かったので、その言葉の優しさ・寛容をヨナに託してみた。

さらに言えば、やりたいことが見つかって、本当に日の目をみたのが40代・・・という方がたも少なくない。「静かに行くものは健やかに行く、健やかに行くものは遠くまで行く」という言葉もあるけれど、神様が自分に対して計画している時間軸に合わせて物事を受けとめて、平安を持ちたい。

ページ12:ヨナの愛

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ヨナには自分が光の一部である自覚やよろこびがある。永遠とつながっている実感があるので、愛を示すことができ、「安心していいよ」と呼びかけることができる。

では「愛」とはなにか、ということだけれど、私は「愛は感情ではなく、その時自分のするべきことをする、行動のこと」だと教わった。第一コリント13章には「愛とはなにか」が書かれていて、これをシンプルにそのまま愛のありさまだと信じている。その聖句を引用して、第3話の解説を終える。

[コリント人への手紙 第一 13:1〜13]
たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。
たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。

たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。
すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。
愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。

私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、
完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。
私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。
今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。
聖書 新改訳2017



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