見出し画像

【2023年10月17日、福島取材その4 水の採取を終えて】

「有料」とありますが、基本的に全て無料で読めます。今後の取材、制作活動のために、カンパできる方はよろしくお願いします。
〜〜〜〜〜

<続き>

 牛舎でいくつか牛の骨や蹄を拾ってから、次はたらちねの水藤さんが「柿を調べたい」というので、柿の木のある場所まで鵜沼さんに案内してもらう。鵜沼さんの家の前の道路を隔てて東側の土地で、僕は5回目の訪問にして、そこまで入るのは初めてだった。

双葉町と大熊町の境。許可なく向こう側に行くことは出来ない。

 柿は結局、あまりにも高い位置に生っていたため採取することは出来なかったが、アケビなどが落ちていたので、水藤さんはそれを採取した。鵜沼さんに案内されるまま入っていくと、行った先には鵜沼家のお墓があった。地震の影響で墓石はややずれていて、近くには骨壷が露出していた。空間線量は0.8〜1.5μSv/hほど。鵜沼さんは笑顔でいろいろと話していたが、僕は何ともいえない感情で頭の中がいっぱいになってしまった。

倒れたままだ。

 その後、熊ノ沢のゲートへ戻り、警備員を電話で呼び出して開けてもらう。煩わしい作業だが、それをもたらしたのが原発事故ということなのだろう。水藤さんは、警備員が来るまで時間があったので、ゲートまで歩きながら資料になりそうなものを探しつつ歩いて移動した。

このゲートの向こうは双葉町だが、地区が違うので入ることは出来ない。
かつて工業団地だった場所は、今は中間貯蔵施設だ。

 身分証を提示してゲートから出た後、双葉駅前へ移動し、たらちねの水藤さん、鈴木譲名誉教授に海水、地下水、牛と猪の骨の一部を預け、そこで別れた。測定には2週間〜1ヶ月はかかるという。山川さんは、小豆川さんが14時半頃に双葉駅前に着くということで、駅前で待つことに。僕と鵜沼さんは、他に行きたいところがあったので、そこで一旦別れた。

 「他に行きたいところ」とは、双葉町中田大仏前の、正一位稲荷神社だった。以前は凄まじい雑草に覆われていて、行けるような状態ではなかったが、Googleマップで見る限り、それが解消され行けるようになったと思ったからだ。神社仏閣マニアでもある僕は、そこもぜひ見たいと思っていた。

双葉町中田大仏前。正一位稲荷神社入り口。

 双葉駅前から車で3分ほど。あっという間に稲荷神社の入り口に着いて車を降りたが、どうも様子がおかしい。目的地に向かう先に、看板が見える。まさか、中田地区は避難指示解除されたはずなのに…数十メートル歩いて行った先には、「この先帰還困難区域につき通行止め」の看板が虚しく立っていた。遠くには稲荷神社の鳥居が見える。

しかし、ここから先は帰還困難区域のため行くことが出来ず。
あの鳥居の向こうの階段を上がると行けるのだが…線量はどれくらいだろう。

 帰宅後に改めて双葉町のマップを確認すると、中田地区で避難指示解除されたのは一部で、やはり稲荷神社のある場所は帰還困難区域のままだった。特定復興再生拠点区域でもなく、今のところ解除の目処は立っていない。ネットで確認する限り、稲荷神社は氏子によって管理されているようだが、ここに一般人がお参りできる日はまだ先のようだ。まるで観光地のようにメディアは取り上げるしイベントは開催されるが、しかしやはりここは原発事故被災地なのだと痛感させられた。

 時計を見ると、13時半すぎ。14時半頃に小豆川さんが双葉駅前に来ると聞いていたので、そこで僕は山川さんに電話をし、食事をしてから合流することとなった。

 人気がなく、休みかと思われた産業交流センターだが、中に入るとフードコートは営業していた。駅前にはコンビニも何もなく自動販売機があるだけだが、ここではわずか数店舗とはいえ、お店が営業し、大熊のダイニング大川原のように閉店することもない…双葉町にありながら、帰還した住民は全く無視した建物の中でカツカレーを食べ、そして再び双葉駅前へと戻った。

産業交流センターのカツカレー。ボリュームは十分だ。

 双葉駅到着後、しばらく休憩した後、小豆川さんも駅前に到着。郡山で学生に放射線の授業をした後、こちらに立ち寄ってくれたのだった。そして傍には、毎日新聞の渡部直樹記者もいた。双方ともに、SNSでは相互フォローなのだけど、直接面会するのはこの時が初めてだった。

左から、渡部記者、山川編集委員、小豆川さん、鵜沼さん。

 経緯を話し、海水と地下水、そして牛の骨を小豆川さんの車へと移す。鵜沼さんが自分の牛の話をすると、小豆川さんがそこで、「え、もしかして鵜沼さんの家の牛って黄色い札を耳につけてました?」と聞いてきた。「はい、黄色い札をつけて、角がないのはうちの牛です」「あー、もしかして、その牛、私見てます! 写真あります!」

2011年4月、大熊町夫沢長者原と双葉町細谷陣場沢の間で目撃された牛たち。これは鵜沼さんの家の牛たちだった。この牛たちのほとんどは餓死した。 (撮影:小豆川勝見さん)

 原発事故後、2011年4月には現地入りしてたという小豆川勝見さんは、熊ノ沢の六国の下のトンネルの東側で、角がなく黄色い監察札を付けた牛を見て、撮影していたという。後日、その写真を送っていただいた。そこには、餌を探し求めて東電敷地境界線と牛舎とを行き来していた牛の姿が写っていた。この牛たちの骨が、12年半の刻を経て、今、小豆川さんの手元に。そして測定を行う…何て奇遇なことだろうか。

 僕一人達成感に満たされながら、ひとしきり皆で話した後、そこで山川さんや小豆川さんたちとは別れた。その後、朝、役場で話を聞いた「再建された」と思っていた寺内前阿弥陀堂へ行った。しかしそこには、解体番号の書かれた札が立つ更地があるだけだった。今朝、「再建された阿弥陀堂」と話した時に、教育委員会の人が首を傾げていたのは、再建などされていなかったからだった。

寺内前阿弥陀堂は、1200年の歴史に幕を下ろした。
原発事故が1200年の歴史を消し去った。

 1Fから北に2km地点で海水と地下水を採取し、鵜沼さんの念願だった牛の骨の測定も出来ることとなり、小豆川さんとの奇遇な出会いもあり、半ば浮かれていた僕の目の前に、1200年の歴史を終えた更地がのしかかってきた。これが原発事故なのだ。やりきれない思いを抱えながら、しかしそれを知ることが出来たのもこの旅の成果、と訳のわからないことを話しながら、帰路に就いた。

六国、中央台付近。車内でこの数値。

 市民測定所と東大で海水と地下水を測定したとて、現状、特に異常値が出ることはないだろう。「ALPSで基準値以下まで処理された3割の水」を、さらに海水で希釈して放出してるのだから。しかし、今回の測定は異常を見つけることが目的ではない。東電の発表する数値が信用できないから、自分たちの手で採取して、自分たちが信用出来る機関に預けて測定してもらう。その端緒につけたことが大事なのだと思う。

 海水と地下水と合わせて130リットル、それに牛と猪の骨の測定。普通に外部に測定を依頼すれば250万円はかかるという。それを、全ての人にとってwin-winな状況で成し遂げることができた。あとはこれを、年一回でいいから続けていくこと。国と東電のやることを市民の力で監視していくこと。それを確認出来たことが、今回の最大の成果なのだろう。

 鵜沼久江さん、山川剛史さん、鈴木譲さん、水藤周三さん、渡部直樹さん、そして小豆川勝見さん、ありがとうございました。

※測定結果について、<続き>に掲載します。

<続く>


ここから先は

0字

¥ 300

サポートしていただけると大変ありがたいです。いただいたサポートは今後の取材活動や制作活動等に使わせていただきます。よろしくお願いします!