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月刊書評誌『子どもの本棚』に記事が掲載されました。

 月刊書評誌『子どもの本棚』に記事が掲載されました。

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「特集 未来を生きるー3.11東日本大震災の今を見つめるー」のなかで、「自分ごととしてー絵本『いぬとふるさと』をきっかけとしてー」と題して書きました。

個人的には、フォトジャーナリストの豊田直巳さんと同じ誌面に掲載されたことが感慨深いです。

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なかなか目にする機会のない冊子だと思うので、ここに記事を公開したいと思います。

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自分ごととして  ー絵本『いぬとふるさと』をきっかけとしてー

 2022年3月11日を以って東日本大震災と福島第一原発事故から11年が経ちます。昨年は震災から10年でしたが、新型コロナウイルスの蔓延により、やや霞んでしまった印象がありました。メディアでは「節目」のようにいわれましたが、福島第一原発では今もずっと変わらずに廃炉に向けた作業が続いています。その年月は、公的には40年かかるといわれていますが、実際には早くても300年、場合によっては永久に終わることはないと思います。

 原発事故による避難者は今も、原子力災害伝承館では約3万6千人、復興庁の調査では約4万2千人、ジャーナリストの方が各自治体に問い合わせた数字を合わせれば約7万人もいるといわれています。その他、原発事故をきっかけに避難とはいわずに引っ越した人も合わせれば、もっと多いでしょう。放射能という強力なエネルギーの前では、「もう11年」ではなく、「まだ11年」なのだと思います。「忘れない」とよくいわれますが、そもそも原子力緊急事態宣言は今も発令中であり、現在進行形で何も終わっていないのです。

 原発事故後、僕が住むさいたま市のさいたまスーパーアリーナに双葉町の人たちが避難してきました。僕は介護士としてボランティア登録をしましたが、その時に、駐車場に数多くの犬が繋がれていたことをよく憶えています。それから数ヶ月後、我が家で一匹の柴犬を動物愛護センターから引き取りました。荒川河川敷を放浪していたそうですが、誰かに飼われていたようにも見え、僕はスーパーアリーナで見た光景を思い出しました。避難生活でやむなく愛犬を飼い続けられなくなった人が泣く泣く離したのではないか、その勝手な思い込みが、その後も忙しく介護福祉士として働くなかで福島を追い続ける原動力になりました。

 震災から刻が経つにつれ、原発事故に関する報道はどんどん減ってきました。コロナ禍、そして10年が過ぎてからは尚更減ったように思います。東京五輪2020に対する忖度もあったと思います。「福島県内のニュース」としてそれなりに伝えられてはいますが、全国では「処理水」とされる汚染水の問題がたまに伝えられるくらいです。それとて、東京電力や原子力規制委員会等が提供した資料を元にしたニュースの垂れ流しと、「風評被害の払拭」が語られるだけです。原発事故直後は高い放射線量のため、少しずつ除染が進んだ今はさまざまなタブーのために、原発構内ではなくその周辺で何が起きているのか、一般市民が知ることはなかなか難しい状態になっていると感じています。

 2015年3月、僕は仕事を辞めたタイミングで初めて震災後の福島県浜通りを訪れました。報道が減るなかで、自分の目で現地の様子を見て何が本当か確かめたいと考えたからです。自動車運転免許がないので、鈍行列車を乗り継いで、その時は広野町まで行きました。当時、広野は避難指示解除からそれなりに時が経っていましたが、津波の傷跡はもちろん、その人気のなさに驚きました。その年の5月、友人の運転する車で、初めて国道6号線を走って帰還困難区域を見ることが出来ました。震災から4年が経っていましたが、道路沿いには数多くの家屋や店舗が震災直後のままの状態で放置され、田んぼや畑は原野へと変わり、まさに刻が止まっていました。帰還困難区域を抜け南相馬の海岸で友人と休憩したとき、あっという間に広がった濃霧の中で、倒れたままの重機を眺めながら僕はただ圧倒されていました。

 僕が見たこの光景を誰かに伝えなければ。知ってしまった者の責任として、表現者として伝えなければいけないと考え、原発事故被災地の絵を描くようになりました。

 前述のように、僕は自動車運転免許を持たないので、基本的に駅から歩いて取材をします。カメラと線量計を持って町や山、川、そして海を撮影しながら歩くのは、最初は気が遠くなるようでした。しかし、車での取材と違って、徒歩だとそれぞれの場所が点ではなく線で繋がって見えてきます。じっくり見て、その場の空気を感じながら考えながら歩くことができます。これは、作品という形で世に出すために、必要なことだと考えています。

 また、避難指示解除された場所に帰還した人や、帰還困難区域のゲートに立つ警備員の方と出会ったり、パトロールの警察官から職務質問をされた時などに言葉を交わしたりします。そこでは、現地の人たちの率直な本音やオフレコ的な話を聞くことが出来、考えや想いを知ることが出来ます。一見、不自由な「歩く」という取材スタイルのおかげで、逆に現地の空気感というものをよりリアルに感じ取れ、それが作品を通して少しでも多くの人に伝わってほしいと考えています。

 そのようにして描いたものを展覧会などで発表しているうちに、僕と同じく現地に通っているアーティストやジャーナリスト、そして何人もの福島県内外に避難した人たちと知り合うことが出来ました。最初は、当事者の人たちに見てもらうことはとても怖かったですが、実際には「よく描いてくれた」という反応が多く安心しました。「復興」の名の下に変わりゆく故郷を、避難した人たちは、たとえ震災後の風景であれ、作品として残すことに感謝の言葉をかけてくれました。そして、「私たちの声をより多くの人に伝えてほしい」と話してくれました。

 震災前は、福島第一原発で作られていた電気は首都圏に送られていました。首都圏の暮らしは、福島で作られた電気で成り立ってきました。それが今は、メガソーラーへと変わっています。形は変われど、都市と地方の歪な関係は今もそのままです。

 原発事故は、都市部に住む人たちにとっても決して他人事ではありません。電気をはじめとした様々なことを通して、全ては地続きです。自分ごととして、僕の描いた絵本やイラストレーションが、今までの暮らしや生き方を考え直すきっかけになればと考えています。

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