【2023年12月、小良ヶ浜取材その3 旧帰還困難区域ゲート〜赤坂神社】
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小良ヶ浜地区は、富岡町でも唯一残った帰還困難区域だ。その中でも小良ヶ浜深谷地区にはこれまでに何度も訪れているが、大量の放射性廃棄物を詰めたフレコンバッグの仮置場になっていたビジュアル的なインパクトも勿論だが、その汚染もかなり酷いものがあった。僕がこれまで訪れていたのは小良ヶ浜でも最も南に位置する場所で、富岡駅からは直線距離で2km程度しか離れていないが、そこは今でも3.0μSv/h以上の汚染が残っている。
大熊町と接するその地区は、主に1Fの3号機の爆発で汚染されたと言われている。3号機爆発で放出された放射性プルームが南へ流れ、大熊町の熊川地区、小良浜地区、そして富岡町の小良ヶ浜地区を汚染し、そこから海へと流れていった。実際、その3つの地域は今も帰還困難区域である。そんななか、富岡の小良ヶ浜地区だけが道路と6つの拠点を除染して自由通行出来るようにした。それが「避難指示解除」の実態であり、まだ人は住むことが出来ない。道路で寝泊まりは出来ない。
かつて帰還困難区域のゲートがあった場所を通り抜けると、途端に手元の線量計は1.0μSvを超える。あまりにもわかりやすいその変化は、おそらく大熊寄り(北側)にある山林が除染出来ないからだろう。北側の除染出来ない山林から大量の放射線が降り注ぎ、必然的にこの小良ヶ浜野上線も線量が高めとなっている。
小良ヶ浜野上線の南側は、かつては農地だった。それがフレコンバッグの仮置場となり、今は中間貯蔵施設に移動され、更地となっている。いくつかの箇所では盛り土がされていた。除染だけでは線量が下がりきらないので、盛り土をして土壌からの放射線を遮蔽するのだろう。そしてコンクリで固め、そこに商業施設を建てるというのが富岡町のこのエリアの「復興プラン」のはずだ。大熊町の大野駅周辺でも、同様の工事が行われている。
海に近づくにつれ1.0から1.3へと、少しずつ少しずつ線量が上がる。数百m進むと、左手の山林の中に行ける道が現れた。その先は墓地があったはずだ。いつでも墓参りが出来るように、そのために除染された道。それは勿論、いつでもお墓に入れるように、という意味でもある。
海へ向かって1kmを過ぎたあたりから、右手にフレコンバッグが姿を現し始める。遮蔽用の土嚢もあるし、中には新しく運び込んだ「放射性廃棄物」(汚染されるまでは財産だった)もあるようだ。何にせよ、ここから見える風景は「復興」からは程遠いものだ。六国から離れれば離れるほど、復興とは遠い風景が現れる。何ともわかりやすい。
富岡駅へと至る道との合流地点では、庚申塔や観光案内板など、興味深いものがいくつかあった。それらを撮影していると、黒い軽自動車がやってきて、スーッと窓が開き、「Oh!」と声をあげて外国人が庚申塔をスマホで撮影した。まさか避難指示解除に合わせて来たわけではないと思うが、いいタイミングで日本に来たものだ。僕に向かって「コンニチハ〜」と言いながら、彼は去っていった。
その合流地点から少し進むと、更地の上に狛犬が2つ立っていた。そばには「赤坂神社」と書かれた塔が建っている。奥には、解体番号が書かれた札が立っていた。ああ、ここに神社があったのか…解体され、今はただ狛犬と供養塔、小さな社が残るのみ…。
調べてみると、富岡町は夜ノ森と小良ヶ浜を境にして、岩城氏と相馬氏が争っていた場所だという。「余の森」「おらが浜」が地名の由来だとも言われており、ここは境界の町としてたびたび戦禍に見舞われてきた。そうした悪疫を祓うべく建てられたのが夜ノ森の大年神社であり、小良ヶ浜の赤坂神社だった。
境界である富岡町にあった新福島変電所が故障し外部電源喪失の一因となり、原発事故が起きて再び富岡町は戦禍に見舞われた。原発事故という悪疫によって、赤坂神社はその歴史を一旦は終えることとなった。今後、再建が予定されているとのことで、ホッと胸を撫で下ろしている。
<続く>
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