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レイ・ブラッドベリはもう古い。クリエイティブになるための真に有効な方法は「飽き」にこそある。

この記事にインスパイアされて書きました。

クリエイティブになるにはどうすればいいか?

そういう問い立てについて議論するとき、ぼくには最前から「格好から入る人が多いのではないか」という疑問があった。つまり、クリエイティブというのはある種のスキルであって、手順を踏めば誰でも身につけられると思っている人が多いのではないだろうか。しかし、それは違う。クリエイティブはスキルではなく、「状態」のことなのだ。その意味で、誰でも持てるかもしれないが、誰からも失われたりする。

「クリエイティブはスキル」と勘違いする人が多いのは、近年「クリエイティビティ」を求められる仕事が増えたからではないだろうか。例えば、昔はホームページを作るときなど専門職に丸投げで、クライアントは何も考える必要がなかった。しかし近年は、「ホームページくらい自分でも作ろう」という会社も増え、そこでこれまでクリエイティブとは無縁だった人にまで、いきなりそれを求められるようになったのだ。

だから、そういうセミナーは活況を呈しているし、上記の記事もバズったのだと思う。上の記事では、主眼は「とにかく本をたくさん読め」ということだった。レイ・ブラッドベリがあるインタビューで答えた考え方なのだが、しかしこれ自体は「1万時間の法則」などで比較的よく知られた手法だと思う。量が質を生む——というのは今では定説となっていて、否定する人ももはやあまりいないだろう。

だから、むしろ今の問題は、「どうやってその量を生み出すか」ということに移行してきている。というのも、1万時間の法則が定着して以降、多くの人がこれを採り入れようと試行錯誤してきたのだが、しかしそこで明らかになったのは、この1万時間を苦もなく成し遂げる人と、死ぬほど努力しても成し遂げられない人がいるということだ。そこに圧倒的な「条件格差」が存在するということである。

そうして最近では、それを「才能」というようになった。「努力しなくても1万時間何かをし続けられること」こそが才能なのだと。そして、この才能は努力では補えないと。

例えば、レイ・ブラッドベリは「本を読め」と、実に簡単に言ってしまっている。なぜなら、彼自身、そこにほとんど何の努力も払わなかったからだろう。彼はけっして、イヤイヤ本を読んでいたりなどしない。おそらく鼻歌でも歌いながら、すいすいと読んだはずだ。

いやむしろ、読まない方が苦しくなるから、呼吸をするように読んでいたはずである。読まずにはいられなかったのだ。そしてレイ・ブラッドベリは、そういう読書こそがクリエティビティを生むと述べているのである。これは、有り体にいって古い考えだし、役にも立たないと思う。

だから、最近の論調はこんなふうに変わってきている。

「苦もなく1万時間打ち込めるものを探せ」

人間には、それぞれ向き不向きがある。本を読むのが得意な人もいれば、不得意な人もいる。そして本を読むのが不得意だからといって、全てがダメということはない。その人にはその人に合った、1万時間苦もなく続けられるものがあるはずだ。

だから、それと出会うこと——それを見つけることがだいじなのだ。それさえ見つけられれば、1万時間やり続けることは容易なので、能力も苦もなく身につけられるというわけである。

ただ、ぼくは最近、そこにもう一つ、別の要素が必要ではないかと考えるようになった。ただ1万時間続けていただけではダメで、そこである種の心理的境地というか、それこそ「状態」に至らなければいけないと考えるようになった。

その「状態」こそ、クリエティビティを生み出すと思うのだ。
では、その「状態」が何かといえば、それこそが「飽き」である。人は、飽きないとクリエイティビティを発揮できない。なぜなら、「飽き」が欠けていると、クリエイティビティを発揮する必要性がなくなるからだ。

例えば、あるところに3人の少年がいたとする。彼らが、一斉に『スペースインベーダー』という古典的ゲームに取り組んだ。すると、三者は三様の反応を見せた。それは、以下のようなものだ。

少年A:『スペースインベーダー』を始め、最初は熱中したものの、100時間でやめてしまった。
少年B:『スペースインベーダー』を始め、やがて熱中し、気がつくと1万時間プレーした。しかしながら、情熱は冷めることなく、今もプレーし続けている。
少年C:『スペースインベーダー』を始め、やがて熱中し、気がつくと1万時間プレーした。ただ、そこで飽きてしまった。これ以上プレーする気は起きなかった。それでも、熱中していたときの楽しい記憶だけは残った。

ここで少年Aは、分かりやすく「才能がない」ということができるだろう。彼にはゲームの才能がないのだ。ところで、多くの人は少年Aのこの状態を「飽き」と解釈している。これは、一面にはその通りかもしれないが、しかし真の意味での「飽き」ではない。それより以前に、不適正が起きている。つまり、100時間で飽きてしまうようなものは、最初からそれほど好きではなかったのだ。向いていなかったといっていい。

次に、多くの人が少年Bのことを「才能がある」と考える。確かに、プレーする才能はあるだろう。ただし、それだけではクリエイティビティは持てない。それだけでは、クリエイティブな状態になれない。
なぜなら、少年Bは今のままで満足しているからだ。そのため、何もクリエイトする必要性がない。必要は発明の母で、何もクリエイトする必要がない場面で、人はどんなにがんばってもクリエイティブにはなれないのである。

つまり、クリエイティブになるためには、少年Cのようにならなければならない。1万時間打ち込めるほど好きで、それでいながら「飽き」ることもできる。そういうとき、人には途方もない「クリエイティブ」が沸きあがる。あの『スペースインベーダー』を始めた頃の、あるいはゾーンに入って無我夢中でし続けた頃の、さらにはそろそろ飽きたと思ったらまだ面白さがあると再発見したときの、そのときどきに脳内に分泌された麻薬の快感が忘れられない。

それこそが、本当の「飽き」なのである。そして人は、この本当の「飽き」を経験したとき、初めてクリエイティブになれる。その「飽き」を解消するために、自分でクリエイトするしかないと考えるようになるのだ。すなわち、クリエイティブな状態になるのである。

これこそが、クリエイティブになるためのたった一つの方法だ。だから、どんな分野であれ、1万時間取り組む。さらにその後、「飽き」る。そうしなければ、クリエイティブにはなれないだろう。レイ・ブラッドリだって、1万時間本を読んだ後に、本を読むことに飽きたのだ。しかし、本を読むことの快感が忘れられず、仕方なく自分で書き始めたのである。

ぼくも、ゲームが好きで、ゲームのことを考え続けてきた。「なぜゲームはこれほど面白いのか?」ということを考え続けてきた。そうして、研究書を1万時間読んできた。

しかし、さすがに「飽き」てしまった。そこで、仕方なく自分で書いた次第である。

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