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男性がつらさから解放されるためには「真のマッチョイズム」の復権しかない

「男性のつらさの構造」という記事が話題になっていた。

男性のつらさの構造|すもも|note

昨今の登戸の無差別殺人事件や元農水事務次官が息子を殺した事件などから、現代の男性の生きづらさを考察した内容である。

確かに、現代日本の男性は生きづらい。ぼくも男性だが、日々つらさを感じながら生きている。あるいはネットを見ていても、いわゆる「フェミニスト」に敵対したコメントは数多く、男性であることのつらさを感じながら生きている男性が多いことをうかがわせる。

上の記事では、「男性がつらさから解放されるためには」という問い立ての中で、以下の三つの施策を提言していた。

一、女性の意識改革。
二、男性のソーシャルサポート強化。
三、現実逃避。

しかし、この意見についたコメントは、その多くが否定的だった。なぜなら、男性のつらさからの解放を、外部——とりわけ女性に頼りすぎているからだ。

ぼくも、この方法では男性はつらさから解放されないと思った。というのも、ここには一つ、重要な視点が欠けていると思ったからだ。男性がつらさから解放されるための、最も本質的な価値観が欠落していると思った。

その欠落している価値観とは、「マッチョイズム」である。マッチョイズム——それも真のマッチョイズムとも呼ぶべき価値観こそが、現代日本の男性をつらさから解放するための重要な鍵になると考える。

ただし、現代社会はマッチョイズムに対して否定的だ。「マッチョ」というとそれだけで、脊髄反射的に拒否反応を示す人は、男女ともに少なくない。

しかしそれが大多数に拒否されている昨今、人々は果たして以前より生きやすくなっただろうか。むしろ、生きにくくなった人の方が多いのではないだろうか。ということは、マッチョイズムは生きづらさの要因ではなく、むしろそれが失われつつあることによって生きづらさが増しているとは考えられないだろうか。

ぼくは、そう考えている。特に男性がマッチョイズムを毛嫌いすることにこそ、生きづらさが増幅していることの主たる要因があると考えている。

そこでこの記事では、マッチョイズムの復権を提言してみたい。そうして、マッチョイズムが必要な理由と、それが用いられたときの予測される効果について述べていきたい。

また、マッチョイズムを復権させる具体的な方法についても提案していく。ちなみに、その方法については、有料記事とさせていただく。

まず、なぜ今マッチョイズムの復権が必要なのか? それは、男性はそもそも、女性なしでは「つらさ」を感じながらでないと生きられないからだ。男性は、女性抜きには充足した人生を味わえない。

なぜかというと、男性は性欲に強く支配されている。同時に、女性が与えてくれる心の安らぎも、不可欠な価値として重視している。そういうふうに、男性にとって女性は、心身共に満たしてくれる存在だ。それゆえ、男性は女性抜きで充足した人生を味わえないのである。

それに対し、女性はある程度男性なしでもつらさを感じない。男性抜きでもそれなりに楽しく生きられる。その意味で、男性は女性と比べ、はじめから不利な立場にある。そこに、性の非対称がある。男性は、そもそも生きやすさという意味で女性に負けているのだ。ヒエラルキーの下位なのである。構造的にそうなっているのだ。

だから男性は、「自分は女性より下なのだ」と任じなければ、上手く生きていけない。ところが、近年は男女平等が叫ばれるようになった。そのため、多くの男性が「自分は女性と対等である」と考えるようになった。そうして、女性にも対等に接することを求めるようになった。

すると男性は、本来的に持っていたその「攻撃性」を、男性だけではなく女性にも向けるようになった。あるいは、男性が得意な競争を、女性にも仕向けるようになった。そうして、女性をライバルと見なしたり、敵視したりするようになったのである。

そういうふうに、男女平等社会の到来が、逆に男性による女性への敵視を増大させた。「男性が下である」という価値観が失われたことによって、逆に男性が女性を攻撃するようになってしまったのである。

しかし真のマッチョイズムは、そもそも女性を攻撃対象にしたりしない。なぜなら、真のマッチョイズムにおいて、女性は基本的に上位の存在であり、男性にとっては「ともだち」に他ならないからだ。

この「ともだち」というのは、『キャプテン翼』における「翼とボールとの関係」によく似ている。つまり、向かい合う相手ではなく、手を取り合う相手なのである。争う敵ではなく、協力する仲間なのだ。

それが、男性にとっての女性である。男性にとって女性は、老いも若きも全てが「ともだち」の対象である。味方でしかあり得ない。逆に味方につけなければ、生きてはいけない。早晩「つらさ」に襲われて、いい死に方はできないだろう。

男性にとって女性は、守り、助ける存在である。そういうマッチョイズムを貫くことで、初めて協力関係を結べるのだ。初めて「ともだち」になれるのである。

これは、有史以来普遍の法則だ。人類が生まれてこの方、女性を敵に回して栄えた男性は一人としていない。栄える男性は、必ず女性を味方に(それも複数)つけてきた。彼らは全員女性と「ともだち」になるのがとても上手く、多くの女性と協力し合いながら生きてきた。それは政治家も軍人も商人も市井の人も芸術家も、皆そうだ。男性というのは皆が皆、女性を味方につけないといい人生は味わえないようになっている。

だから、男性が争うべきは男性しかいないのだ。男が競うべきは男なのである。実は男性こそが、男性の敵である。男性は、その攻撃性や競争心を、男性にこそ向けるべきなのだ。

そこでこそ、真のマッチョイズムを発揮すべきである。それこそ、命を賭けてマッチョイズムを貫き通すべきだ。そうすることで、初めて充足した人生を味わえるようになり、つらさからも解放される。これは善し悪しではなく、そもそも人類とは、あるいは男性とは、そのような構造の上に成立しており、そうすることが最も自然なのである。

男性の敵は、男性だ。そして女性は、どこまでいっても「ともだち」である。そうした真のマッチョイズムが、今の日本社会では決定的に失われてしまった。多くの男性が、男性こそが味方だと勘違いし、女性を敵だと見なし違いをしている。

だから、どこまでいってもつらさから解放されないのである。男性が男性を味方と見なし、女性を敵だと見なしている以上は、女性は絶対に友だちになってくれない。そして女性が味方になってくれなければ、男性が栄えることはなく、従ってつらさから解放されることもないのである。

ただし、女性を極度に敵視する男性が異常にモテる——という現象は希にある。しかし、そうした男性が幸せになることは絶対にない。なぜなら、彼らは女性を敵視しているため、たとえ女性からモテたとしても、本質的に満足することはないからだ。それでつらみからは解放されない。

そうした男性がモテるのは、相手の女性に「この女性蔑視の男性を改心させてやろう」という誤ったマッチョイズムが芽生えるからである。つまり、その女性も感覚を狂わせているのだ。そのため、そういうカップルにおいてはお互いを傷つけ合うことに終始して、けっして建設的な関係には至らない。

だから、もし男性がつらさから解放されるためには、くり返しになるが真のマッチョイズムを取り戻し、自分の敵は男性で、女性はともだちだと認識するところから始めなければならない。そうして女性を守ったり助けたりしていくことである。そうすることでしか、男性が幸せになることはないのだ。

では、ここからは有料部分になるが、どうしたら女性とともだちになれるのか? どうしたら女性を味方につけ、つらさから解放されるのか?

それには、次の三つのことをすればいい。次の三つの行為を実践するだけで、女性との関係は大幅に改善し、たくさんのともだちができる。そうしてつらみから解放され、幸せに生きていくことができるのだ。

その三つとは、以下である。

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