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手続き優先主義者が世の中を悪くする

安冨歩先生がTwitterで「猫を救済するための町を作りたい」と意見したら、それに対して「そんな発言をしたら『犬町はなぜ作らないのか』とか、『それ以前に人間を救済してからだ』という批判が来るので、そのような発言は控えられた方が良い」というリプライが、れいわ新選組の支持者氏(以降「支持者氏」)からあった。それで安冨先生は、その人とのやりとりが嫌になって「次の選挙には出ません」と宣言したのだが、今回はこのことについて少し書きたい。

そもそも、安冨先生にリプライを投げた支持者氏は、自分の何が「問題」かを分かっていない。だから、議論どころか会話も成立しない。そこで、まずは支持者氏の問題とは何なのかを、なるべく簡潔に、分かりやすく説明してみたい。

最初に、結論からいうと一番の問題は「手続き優先主義」だ。では「手続き優先主義」とは何か? それは、正しい手続きは、あらゆる行動や結果に優先されるべきだ——という考え方である。これがいけないのだ。

なぜかといえば、「全体の幸せの総和を損なう」からだ。例えば、震災時の避難所に100人の避難者がいたとする。しかし、そこに届いた毛布は80枚しかなかった。このとき、避難所の管理責任者が「手続き優先主義者」だと、「手続きの正しさ」を優先するので、その80枚しかない毛布を配ってしまうとあぶれた20人に不平等になる、と考える。これは、手続き的に正しくない。だから、あらゆる行動や結果よりもその手続きの正しさを優先し、「誰にも配らない」という決断をする。それで、100人全員が寒い思いをし、誰も得をしなかった。結果として、全体の幸せの総和は大きく損なわれた。それでも、手続き優先主義者は屁とも思わないのである。それが問題だと自覚できないのだ。

これは、たとえ話ではない。東日本大震災のとき実際にあった話だ。この事例からも分かるように、手続き優先主義が力を振るうと全体の幸せの総和が減る。それに比べると、たとえ20人が不平等を感じたとしても、80人に毛布を配った方が幸せの総和は大きい。また実際には、「毛布の必要な人」から順に80人に配れば、さらに幸せの総和は増す。全員に配らないという「手続き優先主義者の解」とは、雲泥の差となる。

ただし、このときに気をつけておきたいのは、「不平等がゼロになることはない」ということだ。極力小さくすることはできるが、ゼロには絶対にならない。

このことから分かるのは、人間の社会は、不平等をなくそうとするより、むしろ多少の不平等には目をつむった方が、全体としてはより幸せになるということだ。これはもう、議論の余地がなく決まっている、自然の摂理なのだ。

実際、昔から社会運営が滞る平等のことを「悪平等」といって、人々は忌避してきた。ところが今は、ポリティカル・コレクトネスという価値観の急激な高まりによってそれが脇によけられ、支持者氏のように全体の幸せを損なうことを厭わない手続き優先主義者が増えてしまった。

そして安冨先生は、そういう人たちが社会全体の幸せを低くさせていることを問題にしているのである。そういう人とは価値観を共有できないばかりか、はっきりと対立している。だから、議論どころか会話にすらならないし、立候補をやめるという発言に至ったのだ。

さて、そういう構図があることを前提に、しかしそうなると、ここで一つの疑問が出てくる。それは「では障害者はどうとらえればいいのか?」ということだ。数年前、神奈川の施設で何人もの障害者が殺されてしまった痛ましい事件があったが、この事件を筆頭に、障害者に対する風当たりがここ数年強まってきている。いわゆる「障害者差別」の声が、公然とささやかれるようになった。あるいは、障害者はいまだに社会の中で阻害されたままである。こうしたことは、どうとらえればいいのか?

「手続き優先主義」をやめるとなると、社会全体の幸せが優先されることになる。しかしそのときに、弱者は阻害されるのではないか? 上の避難所の毛布のたとえでいうと、弱い者には毛布が回ってこない危険性が高まるのではないか?

実は、それはその通りなのである。手続き優先主義をやめると、弱者は阻害される可能性が高くなる。それを、今度は「痩せた母猫」のたとえで説明してみたい。

猫というのは、子だくさんだ。一度に6匹生まれるということもある。このとき、母猫が痩せていて体力が足りず、4匹しか乳を与える余裕がない場合がある。すると母猫は、最も弱い2匹を見殺しにし、残りの4匹に乳を与える。そうしないと、全ての子猫に乳が行き渡らず、最悪の場合6匹全てが死んでしまうからだ。それよりは、死ぬ子猫の数が少ない方がいいと考え、最も弱い2匹を差別する(見殺しにする)。そうして、全体の幸せを優先するのだ。

上の「たとえ」はオブラートにくるむために猫を用いたが、これは人間も同じである。人間も、多くの人が衣食住を満たされていなかった100年ほど前までは、障害者は当たり前のように差別され、見殺しにされてきた。なぜかといえば理由は簡単で、全体の幸せが優先されたからだ。社会全体が貧しく、全員を養う余裕がなかったから、障害者の扱いはぞんざいだったのだ。端的に言って、彼らを生かしておく余裕がなかった。けっして100年前の人々が非道徳的だったわけではなく、単に貧乏なだけだったのだ。

ではなぜ差別が改善されたかといえば、これも理由は簡単で、衣食住の配給が劇的に改善されたからだ。障害者の人を差別しなくても、社会全体の幸せは損なわれなくなった。それはけっして、現代人が100年前に比べて道徳的に成長したからではない。

世知辛い話だが、これがこの世の本質だ。そのため、今でも差別というものは我々の心の奥に潜んでいる。もしまた食糧事情が悪化すると、すぐにそれは出てくるだろう。社会全体の幸せが阻害されれば、障害者差別はどうしたって起こってしまう。これはいい悪いではなく、世の中はそういうふうにできているのである。

しかしながら、たとえ貧しいからといって、差別するのを良くないと思うのも、また人間の特性だ。母猫だって、体力に余裕があれば、弱い子猫も見殺しにしない。6匹ともに乳を与える。人間も同じで、社会全体に余裕があれば、障害者を助けようとする。だから、障害者差別を少なくするには、実は社会全体の幸せを上げていくことが一番なのだ。そうして多くの人の心に余裕を持たせることが、差別を減らす一番の近道なのである。

では、昔に比べるとはるかに豊かになった今の世の中で、なぜまた障害者を差別する人たちが増えているのか? なぜ神奈川のような事件が起きるのか? これも理由は簡単で、その増えたはずの富が、適切に分配されていないからである。特に、「障害者を差別する人たち」に行き渡っていない。だから、彼らは「障害者を生かしておく余裕はない」と判断し、差別をしているのである。

一方、今の世の中で「障害者を差別しない人」や、「差別に反対する人」というのは、世の中が十分に豊かだと知っているし、またその恩恵をこうむってもいる。だから、彼らは余裕があり、障害者の人たちを差別しないのだ。けっして彼らが「道徳的な人間」だからではないのである。

実際、障害者差別をしない人の多くは、今のこの食料的には豊かな世の中で、相対的貧困に陥っている人が少なくない——つまり富の分配が適切ではないということが理解できていない場合が多い。だから、「こんな豊かな世の中なのになぜ障害者差別をするのか」と、差別する人のことを悪く思うようにもなっている。

そうして皮肉なことに、そういう人たちが「差別する人たちを差別する」という二次差別が起きている。今の世の中では、障害者差別を糾弾する人の多くもまた、「差別者差別」という名の差別者なのだ。

そういう差別者差別の人が、障害者差別の人に「差別をするな」と言っても全く意味がない。それよりも、目の前で起きている富の分配の不適切さを認め、障害者差別をする人たちにも適切に富を分配するよう務めるべきだ。そうすれば、彼らだって子猫を大切に思う母猫のような性質を持っているので、自然と弱い子猫にも乳を与えるようになる。すなわち、障害者差別をしなくなる。

その意味で、「富の適切な分配」も、社会全体の富の総和を増やすことと同様に、非常に重要である。特に今は、社会全体の富の総和は比較的大きくなっているのだから、分配さえ上手くいけば、差別はもっと少なくなるはずである。

それではなぜ富の分配が進まないかといえば、それは、上でも述べたように多くの人が、そもそも「富の分配が上手くいっていないという構造の存在」そのものすら認められないからだ。理解していないどころか、気づけていない。

そのため、まず取り組むべきは、今富の恩恵にあずかっている人たちが、分配の不適切を認めることだ。その上で、富の適切な分配に真剣に取り組むことである。

そして、富を適切に分配するためには、その前提として「手続き優先主義」をやめることが必要となってくる。なぜかといえば、ここまで見てきたように「手続き優先主義」は、まず最もだいじな「社会全体の富」を損なう。次に、彼らは手続きを優先するから「富の分配」も必然的に機械的になるため、そこに悩まなくなる。そうして、それに真剣に取り組まなくなる。100枚の毛布をどのような適切さで配るかということに頭を悩ませず、思考停止で「配らない」と決めてしまうのだ。そうして、貧しい人は貧しいままにされてしまう。

支持者氏の一番の問題はそこである。彼は、社会全体の富の総和を下げるばかりか、適切な配分への道筋すら閉ざし、弱い者の立場を弱いままで捨て置く。

そもそも「手続き優先主義者」は怠け者なのである。というのは、上記のように富の分配は非常に面倒くさい。100人の避難者に80枚の毛布を配るというのは、非常に骨が折れる仕事であるのは想像に難くない。

しかし「手続き優先主義」を採用すると、その苦労から一瞬で解放される。一番楽なのである。ただ配らなければいいだけだからだ。考える以前に配る手間すら省ける。

しかしそれは、一番卑怯な方法でもある。その卑怯さをあらためなければ、他ならぬ手続き優先主義者たちが世の中をますます悪くするという流れは、今後も継続してしまうだろう。

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