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じっくりコトコト派による「知」のシチュー理論

概要

自分は、本などからインプットした知識を蓄積して、後で再現することが非常に苦手だ。つまり忘れっぽい。既存の知識の再現はできないが、新しい発想はどんどん湧いてくる。「知識生成型人間」だと感じている。人それぞれの知識に対する特性を表現できないか考えた中で、一つのコンセプトを思いついた。

要約すると、

  1. 本などからインプットした知識を、日が経っても正確に再現できる人と、すぐに頭から抜けてしまう人がいる。自分は圧倒的に後者。それは知の蓄積や活用の特性の違いで、自分の場合も実際は要素に分解されて取り込まれている。

  2. それを具材(=知識)と調味料(=経験)が溶け込んだシチュー(=暗黙知)で例えてみた。さきほどの前者は「具材ゴロゴロ派」、後者は「じっくりコトコト派」と表現できる。勝手にシチュー理論と名付けよう。

  3. 「今の自分のシチュー」を、もっと出していこう。反対に「他人のシチューの旨み」を味わうことも大事。自分もこれから鍋で熟成されたシチューを出すので、具材がボロボロでも許してね。

というお話。
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書くことへの苦手意識とその原因

自分の頭の中では、常にいろんな考えやアイデアがぐるぐる回っている。それらを文章や図で表現しようとすると、急に頭が真っ白になって筆が進まない。時々スイッチが入って文章にできても、表に出せずにお蔵入りさせてきた。仕事でのものは別として、個人的な投稿を「書く」ことへの苦手意識、発信できないもどかしさがあった。

そうした苦手意識の原因を探っていく中で、「事実関係・文体・構成などなど、きっちりした文章を書かないといけない」という強い刷り込みに縛られていることに気づいた。特に大学周辺で仕事をしているので、より周りの目が気になるのかもしれない。当然、論文はしっかり科学的に手続き・お作法を踏んだものであることは絶対条件。論文でなくても科学を扱う記事は正確性が求められる。

そういうものではない個人的なものは、もっと自由でいいはずだ。勝手に自分で自分の首を絞めていたので、しばらく意図的にユルユルにすることにする。今日はユルユルにするための大義名分として「シチュー理論」を提唱したい。

インプットと再生の特性

きっちりと書くのが苦手なのは、そもそもインプットした知識を正確に再生できないことにある。頭に浮かんだことを表現する際、「その根拠は…」の部分がどこにあったのか、探すのに時間がかかる。

知識は、書籍などからインプットして、脳内に保管して、引き出して使用する。その際、インプットから時間が経つと、当然のことながら徐々に忘却していくが、人によってその程度が異なる。ある程度時間が経っても具体的に再現できる人と、入れたそばからモヤっとなって全く再現できない人がいる。自分は圧倒的に「後者」だ!なにか主張したいことがあっても、なぜそう思ったのかの根拠を具体的に説明できない。「それって、あなたの感想ですよね」と問われると、「そうかもしれない…」と萎んでしまう。

しかし、これまでに自分インプットしてきた知識は、完全に忘れて消えてしまっているのではない。もともと自分は、新しい概念を発想するのが得意な「生成型」だと感じてきていた。それは、過去に見聞きしてきた知識同士が結びついてのもの。消えてしまっていては、浮かんでこない。表現が難しいが、頭の中にインプットされた知識は、そのままの形では残っていないが、要素に分解されて吸収されている。そして取り込まれた「知識」は、人生の中の「経験」と融合して、独自の「知(知見、知恵)」になっている。
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具材と調味料で味わいを生み出す「シチュー理論」

それは、具材がしっかり溶け込んだシチューのような状態。野菜も肉も、一見入っていないように見えても、確実に味わいは感じる。そして素材を活かす人生経験は、いわば調味料。具材(知識)と調味料(経験)が混ざり合って、全く新しい味わい(知)が生み出される。時間が経つと、具材は原型を留めないほどに溶け込み、熟成され、深みが増していく。これを勝手に「シチュー理論」と名づける。

知のシチューを、前述したインプットと再生の傾向から、「具材ゴロゴロ派」と「じっくりコトコト派」に分けてみる。具材(知識)がくっきりしている人は、具材を取り出すのは得意だが、オリジナルな味わい(独創的なアイデア)を出すのは苦手だったりする。自分のように溶けこんでしまう人は、独特な味わいを出せるが、その味わいの根拠の明示や再現性に乏しい。答えのある「テスト」は具材の再現性が、答のない「問い」は溶けたシチューの味わいが向いている、という風にも考えられるか。

知のシチューの図(西尾作成)
ちなみに右のシチューは、実際に晩ごはんで作った煮込みハンバーグ
見た目は悪いけど、美味しいよ

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具材はぼろぼろでもいい。自分の「今のシチュー」を提供する

実際は具材も溶けてたり溶けてなかったり、グラデーションがある。またじっくりコトコト派でも、具体的なテーマがある場合は、そこは意図的に残す。「煮込みハンバーグです」と言ってハンバーグが溶けて無くなっていたら、出された方も困惑する。シチューとの相性のいい具材をトッピングとして"あとのせ"することもある。やはり具体的なデータや引用、小ネタがあると本格的な感じは出る。その匙加減にも、その人らしさが出る。

人それぞれ、自分にしか出せないシチューがある。具材はぼろぼろかもしれない。もっと具材を入れた方が上質になるかもしれない。でも、今の自分のシチューを、そのまま出してみることも大事。自分は「具材ゴロゴロ」でないといけないと考えていた。もっと「今のシチュー」そのままを出してみよう。その味わいが好きだという人に届けば良い。再現性を聞かれたら、そこから考えたら良い。新しい具材の発見にもなるかもしれない。一度立ち止まって、40年かけて、いろんな具材と調味料を投入し、ドロドロに溶け込んでできたシチューを出してみる時期にしよう。「それって、あなたの感想ですよね」と言われても「いえ、私のシチューです!」と答えたいと思う。

他の人のシチューを、ジャッジせずに味わう。

自分のシチューを出すのとは反対に、他人のシチューを「味わう」視点もある。相手の話を聞いて「どんな具材やスパイスが溶け込んでいるんだろうか?」と考えてみる。互いのシチューが混ざり合うことで、さらなる新しい味わいにもなる。それが対話とも言えるかもしれない。

インタビューは、相手のシチューを味わい、その旨みを他人に伝わるように言語化する行為ともいえるかもしれない。そう言った意味では、自分は高度な専門地を持つ研究者も、地域で泥臭くまちの人たちのために活動している人も、それぞれの旨みを味わうことは得意なのかもしれない。自分のプロフェッショナリティーは「味わい力」と言える。旨みは文脈だ。ソムリエのように、味わいの奥にある歴史、風土を読み取ることだ。

そういえば7年くらい前に「もやっとアカデミー」というコンセプトを考えて、何度か少人数の会を開催した。そこで言っていた「みんなのもやもやを味わう」というのもニュアンスは近い。仕事が忙しくて続かず、noteも下書きに戻していたが、改めて公開してみた。
▶️もやっとアカデミー~不確かな"もやもや"を味わう茶会~
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「おわりに」という名の余談

シチューはカレー、調味料はスパイスでもよかった。シチューの方がクリームシチュー、ビーフシチューなど素材や色や味わいなど幅広いし、その中にカレーも含められるし、多様さが表現できそうなのでシチューにした。でもよく考えたら、本場のカリーにはグリーンとかココナッツとかいろいろある。そっちでもよかったかもしれない(名付けて「カリー理論(仮)」!)

しばらく新しい具材のインプットは控え、今鍋に入っている熟成しすぎたシチューを出すつもりでいる。具材ボロボロで見た目も悪いかもしれないが、溶け込んだ旨み成分を感じてもらえたら幸いだ。胃もたれしないよう、何かしらトッピングは工夫したいと思う。

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