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気の抜けた仕事。気の入った仕事。

午前中、つまらない展覧会に行った。
尊敬している作家さんが出展すると聞いていたので楽しみにしていたのだけれど、彼の作品はただ置かれているだけだった。なんの文脈も、解説も、リスペクトもなく、ただ置かれていた。とてもさびしそう。悔しいと思った。

たくさんの作品が飾られていたけれど、見れば見るほど、視界がぼんやりして眠たくなった。自分が誰だか分からなくなった。「芸術ってつまらない」と思わせるような空気があった。

その展覧会の出口では、芸術系の高校の卒業制作展が行われていたけれど、ここで展示するのはかわいそうに思えた。中には気合の入った作品もあったはずなのに、大多数のつまらないものに埋没してしまっていた。

その展覧会には、作家とお客さんをつなぐキュレーター的な人物の存在感が皆無だった。美術館は作家を伝える器ではなく、屋根と壁があるだけの建物に成り下がっていた。

一方、夜は、素晴らしい仕事を享受した。
尊敬する別の作家さんの、器が納品される場に立ち会わせてもらったのだ。

納品されたのは飲食店。心憎かったのは、新しい器にすぐにサラダを盛り付けて提供してくれたことだ。

それはキラキラと輝いていた。器ともよくマッチしていたし、本当においしそうに見える。そして、実際においしかった。こんなにおいしいサラダを食べたのは、はじめてだというくらいに。

出された食事も、トイレの内装も、素晴らしく気が利いていた。
僕らは心の底からその店と作家さんの器を楽しむことができた。

「気」とは、存在感なのだと思う。
それが希薄なものは、気の抜けたコーラのように人を萎えさせる。
一方、それが充実しているものは、人に存在を伝える。コーラがコーラであるように。人はそこから充実を感じ取る生き物なのだと思う。

午前中の美術館でぐったりした僕たち夫婦は、夜の飲食店でみるみる生気を取り戻した。アートとはたぶん人に生気を与えるものなのだと思う。だとしたら、あのお金がかかっていそうな美術館がしていたことは、アートでもなんでもないのだなと学んだ。

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