生きているQ

シーモアさんの言葉と、人生入門。

この記事には映画『シーモアさんと、大人のための人生入門』のネタバレが含まれます。まだの方は、ぜひ一度ご覧になってください。おすすめです。

先日、U-NEXTで、映画『シーモアさんと、大人のための人生入門』を観て感銘を受け、それから何度も観ている。

もうすぐ視聴期限になるため、後から大事なことを思い出せるよう、ピアニスト、シーモア・バーンスタインさんの言葉を書き留めた。

今後読み返すための個人的なメモではあるけれど、音楽を学ぶ人、人間関係や人生について思うところのある人にも役に立つのではないかと思う。

私が15才ぐらいの頃、あることに気がついた。
練習がうまくいった日は、人生のすべてが調和して感じられた。
だが練習がうまくいかない日は、両親や周囲の人たちとぶつかってばかり。

そこでこう結論した。
人格を作る源は、その人が持つ才能の中にある。何の才能であろうとも。

これは以前『ダイモンとデーモン』という記事でも書いたことがある。

自らの才能に沿って行動している時には、すべてが調和して感じられるが、そこから外れると自己破壊的な行動をとってしまう。

それが積み重なって人格を形成する。
つまり、人格とは、才能が活かされたことによる果実なのだ。

音楽に情熱を感じていたり、楽器を練習する理由を理解していれば必ずできる。

音楽家としての自分と普段の自分を深いレベルで一体化させることが。

すると、やがて音楽と人生は相互に作用し、果てしない充実感に満たされる。

このあたりは、僕がひらいている歌のワークショップ、特に体験後に大切なことが書かれているように思えた。

ワークショップで体験した、本質とともにある自分(音楽家としての自分)を暮らしにどう応用するか。本質的な自分と普段の自分とをどう一体化させるか。

シーモアさんは「それには練習が必要だ」と説く。

苦しみが才能を開花させる。
だから決死の戦いに挑んだ。

私は生まれつき知っていたんだろう。
人生とはそういうものだと。

人生には衝突も喜びも、ハーモニーも不協和音もある。
それが人生だ。避けて通れない。

同じことが音楽にも言える。
不協和音もハーモニーも解決もある。
解決の素晴らしさを知るには、不協和音がなくては。

不協和音がなかったらどうか?
和解の意味を知ることもない。

日常の苦しみの中で、いかに本質的な自分であり続けるかということと、音楽の普遍的秩序(後述)に触れるために、いかに練習をするかということは同じことのように思える。

それは簡単ではないかもしれない。
けれど、不協和音やミスタッチがなければ、解決の喜びには触れられない。

誰もが皆、その答えを探している。
人生に幸せをもたらすゆるぎない何かを。

聖書に書いてある。
救いの神は我々の中にいると。

私は神ではなく、霊的源泉と呼びたい。
大半の人は、内なる泉を利用する方法を知らない。
(中略)
皆、神に救いを求めようとするが、救いは我々の中にあると私は固く信じている。

ここは正直言って、まだあまりピンと来ていない。
けれど、僕たちを救うものが外側の神ではなく内側にある、というのは分かる気がする。

「神が助ける」か「神(霊的源泉)は自分の中にいる」か、その見方によって、人を支援したり、人のために仕事をする場合の存在のしかたもガラッと変わってしまうんだろうなと思う。

私に年齢になると、ごまかしを一切やめる。
人にウソを言わなくなり、自分の心のままを語るようになる。

そして真実を言うことこそが、相手にとって最高の褒め言葉だとわかる。
相手が喜ぶことを言うのではなく。

これはとてもよく分かる。「一切やめる」とまでは言えないけれど、目下取り組んでいることでもある。

僕たちは相手を喜ばせようとして、真実ではないごまかしを言うことがある。でも、そうではなくて真実を言うことこそが、相手にとって最高の褒め言葉なのだ。肝に命じておこう。

自分と音楽とのつながりを考える度、いつも同じ答えに行き着く。

普遍的な秩序だ。
夜空の星座が普遍的な秩序を目で確認できる証拠ならば、音楽は普遍的秩序を耳で確認できる証拠といえる。

音楽を通じて我々も星のように永遠の存在になれる。

音楽は悩み多き世に調和しつつ語りかける。
孤独や不満をかき消しながら。

音楽は心の奥にある普遍的真理、つまり感情や思考の底にある真理に気づかせてくれる手段なのだ。

ここはとてもうっとりする。
そして不思議なことだけれど、シーモアさんの言い方をまねれば「生まれつき」僕はそのことを知っていたように思う。

だからこそ音楽が身近にあり、音楽に近づき、その真理に近いものをワークショップの現場で確認している。

音楽は一音たりとも妥協を許さず、言い訳やごまかしも受けつけない。
そして中途半端な努力も。

音楽は我々を映す鏡と言える。
音楽は我々に完璧を目指す力が備わっていると教えてくれる。

これを聞くまで「完璧」を目指してはいけないのだと思っていた。
完璧主義というのは、大抵、人生を苦しくさせる方向に作用するからだ。

少々厳しすぎるようにも感じられるが、僕にはこれは「全力を投じよ」とか「真剣にやれ」というふうに読める。もともと不完全な人間があえて完璧であろうとして全力を投じたとき、そのときだけ開く扉があるように思えるのだ。

だって、そんなふうに人に話を聞いてもらえたら、うれしいから。

『幻想曲作品17』は、シューマンが最愛の妻クララに結婚祝いとして贈った曲だ。

彼はこんなテーマを選んだ。
" 色彩豊かな大地の夢の中で、ひとつのかすかな音があらゆる音の中に響いている。ひそやかに耳を澄ます者のために。"

彼はクララにこの曲を捧げ、こう伝えた。
" 僕の人生において、君がこの音で、ひそやかに耳をすます人だ “ と。

シューマンも完璧を目指すシーモアさんという理解者を得て、曲の中に秘めた思いを開示したに違いない。そうして時代をこえて、歴史をこえて出会うことを可能にする力が「全力」だとか「真剣」にはあるような気がする。

実際、シーモアさんの弟子は、彼のことをこう言った。

「僕は音楽に真剣な人に出会ったことがなかったんです。」

音楽の教師が生徒にできる最善のことは、生徒を鼓舞(inspire and encourage)し、感情的な反応を引き出させること。

音楽のためばかりではない。
人生のあらゆる場面で重要なことだから。

この映画を観て、つくづく「シーモアさんに習いたい」と思った。
でも、人生まで射程に入れて音楽を語る先生だって、少ないけれどいる。

夢にも思っていなかった。
この二つの手で
青空さえつかめるとは。

その人は、この景色まで行こうと僕を呼んでくれる。

妥協はしない。ごまかしもない。
僕をいい気分にさせるために言葉をつかったりしない。

その意味では厳しくてこわい。
でも、本当についていく価値のある先生というのは、そして、本当に目指す価値のある場所というのは、こっちではないだろうかと思う。

僕だってしばしば道を見誤る。訳のわからないことを信じてしまったりもする。人に好かれるためにごまかしを言うことがある。

だからこそ、ここに書き留めておいた。
また読みに来るために。

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