歌うことは難しいことじゃないのか。(3)
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何年かに一度「これは!」という曲に出会えることがある。
その曲を聴くと、全身が震える。
感動して、鳥肌が立って、涙が出てくる。
文字通り「魂に触れる」ような一曲だ。
思春期には、そういう出会いがしょっちゅうあった。
だから、ヒットチャートの上から下まで、片っぱしからレンタルして、ガンガン聴いて、ガンガン泣いた。
でも、年々、その頻度は減っていき、やがて数年に一度になった。
残念ではあったけれど「歳をとるとは、そういうことなんだ」といつしか諦め、受け容れていた。
だから『魂うた®︎』に参加した人たちの歌を聴いたとき、本当に驚いた。
『魂うた』の案内文には「技術や経験は関係ありません」とある。
正直、体験するまでは「本当かよ」と大いに疑っていた。
音程やリズムのことをずっと気にして歌ってきたし、聴く側としてもやっぱり技術をともなった歌がいいと思っていたからだ。
でも、本当に関係なかった。
もちろん技術がある人の歌は、そう聞こえてくる。
でも、驚いたことに、そうでない人の歌も同じか、それ以上に響いてきた。
技術がなくても「本当のこと」に触れている歌はビンビンくる。
思春期の頃の、あの震えるような響きをともなって。
本人が「歌えない」と思って奥に引っこめていた分、それが現れたときの感動は大きかった。
そこには、その人の生きてきたドラマが映し出されていて、いっしょになって「がんばれー!」と応援したりしてともに泣き、笑った。
そんなふうに他人の歌を聴いたことはなかった。
聴くというより、それは「参加する」ことに近かった。
そして、そのような聞き手がいることが歌い手に伝わり、歌い手は、ますます自由になっていった。
ちいさな子どもが母親のまなざしを確かめて、にこにこしながら表現を大きくしていくように。
『魂うた』では、そんな歌い手と聞き手の幸福な相互作用が起きていた。
そんなふうに響きあう場の中で、ヒットチャートを片っぱしから聴いた、あの頃と同じかそれ以上の頻度で、僕はまわりの人たちの歌を聴いて、感動し、震えて泣いたのだった。
(つづく)