歌うことは難しいことじゃないのか。(4)
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この記事を書いている最中に、書いたことを実感する出来事があった。
友だちの結婚披露宴で歌うことになったのだ。
依頼されたのは、当日の朝。
「実は困ったことがあり、少し話せる?」
と、僕の携帯に新郎からメッセージが入った。
聞くと、披露宴で歌う予定だった幼なじみが風邪を引いてしまい、声が出なくなってしまったという。
そのピンチヒッターとして歌ってくれないかという依頼だった。
僕はその日、乾杯の音頭をとることになっていた。
二度の登場は気が引けたが、他ならぬ新郎の頼みとあっては断れない。
新横浜駅に向かう新幹線の中で、指定された曲の歌詞をおぼえながら式場に向かった。幸い、よく知っていて歌ったこともある曲だった。
出番は、新郎新婦のお色直しのあと、メインディッシュの牛フィレ肉とフォアグラのステーキを食べている最中だった。
もちろん緊張した。
「何度もすいません」と言って舞台に上がり、歌うはずだった幼なじみのことに触れて、それから、みんなに意識を向けて歌った。
急遽代打で歌ってみて、わかったことがある。
それは、音楽は「分かち合う」ためにある、ということだ。
この日の歌は、僕が主役ではない。
本来、幼なじみの彼が歌っていたはずなのだ。
きっと練習もしていて、なにか伝えたいこともあったはず。
今日は声が出ないけれど、僕はそれを代弁する器にすぎない。
そして、新郎新婦に向けた歌でもある。
この日の喜びを、そして会場全体の思いを集めて、分かち合うための歌。
僕はその依り代にすぎない。
そんな思いで歌った。
乾杯 いま君は人生の
大きな大きな 舞台に立ち
はるか長い道のりを 歩きはじめた
君にしあわせあれ
楽しかった。
二回目のサビをみんなに歌ってもらったときには、うれしくて体が跳ねていた。「君にしあわせあれ」という気持ちが会場に満ちた。
『魂うた®︎』以外の場所で、知らない人もいる中で、あんなに自由に歌えたのは、はじめてだった。
式も素晴らしかったし、新郎新婦の人柄もよかったからよい人たちが集まっていて、エネルギーが満ちていたんだと思う。
とてもあたたかな場だった。気持ちがよかった。
昔、自分を認めてもらうために人前で歌っていた時とは、まるで違う感覚だった。
嗚呼 歌うことは
難しいことじゃない
その胸の目隠しを
そっと外せばいい
歌うことは、たしかに難しいことじゃない。
でも、その目隠しを外すのが、難しいのだと思う。
ただ、この日歌ってみて、それでもいいかな、と思った。
小さい頃のようには、もう歌えない。
緊張するし、不安にもなるし、こわくもなる。
でも、それを超えて、自分を、歌を、みんなと分かち合えたときに、あんなにもうれしく、軽く、あたたかな気持ちになる。
聴いてくれる人に、思いをこめて歌うこともできる。
それだって、年齢を重ねなければできないことだ。
本当のことは 歌の中にある
いつもなら 照れくさくて
言えないことも
長く生きれば生きるほど、いろんなことが照れくさくなって言えなくなる。
長く生きれば生きるほど、思いも大きく複雑になって言えなくなる。
でも、その言えなさから歌を唄うとき、簡単に歌えるときよりもずっと相手に響いたりするんじゃないだろうか。
披露宴で歌った経験は、僕にそんなことを気づかせてくれた。
頼んでくれた新郎に、そして、いろいろな偶然に、感謝しかない。
これからも、あんな歌を唄っていけたらと思った。
そして、胸の目隠しを外すことを可能にする「あたたかい場」で、みんなとたくさんの歌を分かち合いたいと思った。
(おわり)