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『トイ・ストーリー4』に裏切られたと思う人へ/ おもちゃの幸せと生と死と

『トイ・ストーリー4』の話題になると、必ず聞こえてくるのが「裏切られた」「こんなのウッディじゃない」の声。
もはや4は見てない、見ないことにしたわという人もきっと多いはず。悲しい。

私自身も非常に思い入れがあるシリーズでもあり、また3が完璧なラストだったことで、鑑賞前から聞こえてきた賛否両論の声に不安なままの鑑賞だったのですが、やはりラストに超ド級の衝撃を受けてまいりました。

だからこそ。
ラストのこの決断が本当にウッディの自分勝手なものだったのか、トイストーリー4、そして今までのトイストーリーを通して自分なりに考えてみました。

あくまで私個人の考えと答えですが、今作で「トイストーリーが嫌いになった」という人にこそ読んでもらえたら嬉しいです。

※以下、がっつりネタバレです……!!
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これまでトイ・ストーリーが描いてきたこと

まず前提かつ肝だと思うのが、これまでのシリーズ3作で一貫して描いてきた“トイストーリーにおけるおもちゃ”とは「子供に遊んでもらうもの」であるということ。

中でもウッディはその考えを強く持っていて、常に「アンディのもとへ」というゴールを持って行動する姿が印象的。そしてその事を私たちも知っているからこそ、今回のラストに大きなショックを受けてしまうんですよね。

ウッディはおもちゃとしての生き方を捨てたの??そんなの私たちのウッディじゃない。今までの話はなんだったの??

でもラストまで見届けて今一度考えてみると、これまでとテーマは何もブレていないんじゃないかと思えたのです。

TS4はおもちゃのシックスセンス

前述の通り、おもちゃの生き方・役目は子供に遊んでもらうこと。
言い換えれば「子供に遊んでもらえない、必要とされなくなること」はイコール「おもちゃの死」であるのではないでしょうか。

結論から言うと、トイストーリー4のラストで仲間たちと別れる決意をしたウッディはもうおもちゃとしては死んでいた、と思えるのです。(こんな言い方は悲しいけれど)

というより本当は4の冒頭時点で死んでいたのかもしれなくて、ラストはウッディ自身がしっかりと受け入れた結果なんじゃないかと。まるでシックスセンスみたいな。

ボニーが4の物語中ほとんど1度もウッディに意識を向けたことがない(これはもう一回確認したいなと思う)ことや、パパが思いっきり顔を踏みつけるところ。ウッディを思いやるバズのあれこれ。

回転木馬とキャンピングカーを繋ぐ日よけは、おもちゃの生死の最後の架け橋であり、三途の川のようにも見えたり。

ウッディ自身もボニーにとっての自身の価値がなくなっていくことを自覚しているから、必死にフォーキーを守るという使命にしがみつく。(この時点でウッディの存在価値だったり求めるものは完全に変わってしまっているんだよね…)でもそこにウッディ自身が求められていないのが分かるから、頑張れば頑張るほど痛々しいんですよね。

分かれ目はボイスボックス

シックスセンス的に初めからおもちゃとしては死んでいた、としたけれどウッディ本人としての分かれ目はギャビーギャビーにボイスボックスを渡したことだと思います。

ずっとトイストーリーを観てきた私たちにはボイスボックスがウッディにとって(同じようにアンディ達子供とって)どれだけの誇りであるか十分分かっています。

ギャビーギャビーが「これさえあれば遊んでもらえる」と思うほど、その機能を持ったおもちゃにとってはボイスボックスは命や魂のような存在だったはず。

それを手放す=自分のおもちゃとしての生き方を手放したメタファーなんじゃないかなと。

ここだけでもかなりショックなシーンなんだけど、ラストシーンまで観てこの決断も納得がいく気がしました。

おもちゃの終着点とは

ボニーの元へ帰ったウッディは幸せなのか。

そんなラストシーン、誰もが「いやバズと一緒にボニーの家に帰ってよ!」「なんでじゃ!!」と心の中で叫んだはず。
だってそうじゃん!!私の知ってるウッディはどんな困難があろうと必ず持ち主の所へ戻るんだもん!!

でも……ボニーの元へ帰ったウッディは本当に幸せなのかな……?と考えると、心から「そうだ!」とは言えないんですよね;;

前述の通り、ボニーの遊び・生活の中でウッディの出る幕は少なくなっていくばかり。そりゃたまには思い出したかのように遊んでくれる時間もあるでしょう。でもいつか「終わり」が来ることは分かってるんですよね。

「おもちゃの幸せ=子供に遊んでもらえること」である世界の中で、ウッディの「おもちゃとしての幸せ」はボニーの元ではもう存在しないのかもしれない。

そう考えると「ボニーの元へ帰ってバス達と楽しく過ごすところを見せてよ」と言うのは私たちのわがままなんだなと思えてくるんです。

ウッディの価値を決めるのは私たち(観客)ではない

ウッディのことばかり触れてきたけれど、おもちゃの幸せを語る上でもう一つ重要なのが今回の新キャラ・フォーキー。

彼は出生がゴミという超斬新なキャラクター。(予告時点から「そう来たか〜〜!」とびっくりした)
そんなゴミと紙一重なフォーキーは、いわばウッディとは正反対の存在です。

アンディに大切に遊ばれてきたおもちゃとして。おもちゃ仲間を常にまとめてきたリーダーとして。また博物館に飾られるほどの貴重なおもちゃとして……とおもちゃ界でも高いヒエラルキーにいるウッディ。

もちろん私たち観客にとってもめちゃくちゃに特別な友達です。

でもウッディの価値を決めるのは私たちじゃない。

と言うより、おもちゃの価値を決めるのは私たちじゃない。
そのおもちゃで遊ぶ子供だから。

アンディーが辛い決断をして受け渡したウッディを気づけば蔑ろにしているボニーに、私たち観客はどうしても「なんでじゃああもっと遊べやあぁ〜〜〜!」と悲しくなります。でも、実際自分の過去を思い出すと子供ってそうなんだよなとか、おもちゃってそんなものなんだよなとも思う。めちゃくちゃ悲しいけど。

今のボニーにとってはウッディよりも、ゴミ同然だろうが自分で作ったフォーキーの方が大切なのだ。フォーキーはそんなおもちゃの刹那とか、おもちゃとゴミの紙一重さとか、何より「おもちゃの価値」を伝える存在だったのかなと思います。

いくらウッディが勇敢で仲間思いで楽しくて、大好きで仕方ない存在でも、当の持ち主ボニーにとってそれ以上のものがあるならウッディのおもちゃとしての幸せな未来はないと言えるんじゃないかな……。

最高の相棒だったウッディだからこその選択

だから、このトイストーリー4が主人公ウッディを使いこんなにも究極的に「おもちゃの終着点」を描いたことに心が震えるのです。

私は年齢的にもアンディと一緒に育ってきたようなものだったからトイストーリーシリーズ、中でも「トイストーリー3」への思い入れはひときわ強いのだけど、4を見た後だとある意味でごまかしとも言えるのかなとも思う。(言葉にするのは難しいけど)

ボーが何度か言っていたように、「子供はすぐにおもちゃを失くす。いずれ飽きて存在を忘れられてしまう。」

じゃあ子供と遊ばれなくなったおもちゃは、どうなるの?

捨てられて、焼却炉に行く他に道はあるの?


3でボニーに受け継がれたウッディ達は運が良かっただけで、焼却炉でも道端でも押入れの中でも、どのような形であれいずれ「死」を迎えるのでしょう。

それはボロボロになって物理的に遊べなくなる意味での死の場合もあるし、それこそがおもちゃにとっては喜ばしい最後なのかもしれないけれど(そういう意味ではサニーサイドは天国かも)、きっとウッディがこの先迎えるだろう死はそうじゃない
押入れの中で長い時間を過ごし、おもちゃとしての誇りすら死んでしまうのではないでしょうか。

そしてそれはおもちゃとして生きようとするウッディが最も求めてないことのはず。

だから今回のウッディは、自分がすでにおもちゃとしてもう死んでいるんだと自覚しておもちゃとしての生き方以外を選択したんですよね。

仲間と別れた後のウッディは「自分が遊んでもらうこと」ではなく、他のおもちゃが子供と遊んでもらえる道を作っていて、「すべては持ち主のため」というものでない生き方をし始めている。

その姿は完全におもちゃを超越した存在になったのだなあと。

1作目から一貫して「俺たちはおもちゃなんだ」と何度も口にしていたウッディが最後に子供のためのおもちゃじゃなくなるとか、なにこの話すごすぎない??

ウッディの意志が伝わりづらいのが難点

長々と書いちゃったけれど、なにが言いたいかと言うとウッディはバズたちよりボーを選んだのではなく、
「おもちゃとしての生き方=バスたち」
より
「おもちゃでない生き方=ボー」
を選んだということなんじゃないかと思うのです。

でもこの映画で難しいのが、ラストにウッディがどうしてそんな選択をしたのか伝わりづらいところ……!

特にボーがボーゆえに、使命や仲間より好きな女を選んだ自分勝手カウボーイに見えてしまうのがとても悲しい……!

そして私たちがおもちゃじゃなくて人間であること(当然)も中々受け入れられない原因なんだろうなと思います。
ラストの全てを悟った仲間達や、それ以前から感じ取り寄り添ってきたバズたちはものすごく悲しいけれど受け入れて別れることができるはず。でも私たちはどうしてもウッディに「理想のおもちゃ像」を求めてしまうから。

ラストの決断は子供のためのおもちゃという意識が誰よりも強いウッディだからこそ辿りついた答えであり、守りたいプライドだったはず。

そして何より、ウッディがギャビーギャビーを始め他のおもちゃが愛されるようにと自分を置いても考えられるのは、子供に遊んでもらえる幸せの尊さを知っているから
全てはアンディとウッディの物語であり、しっかりと1~3を踏まえての結末なんです。

だからやっぱりトイストーリーのテーマはずっとブレずに一貫してるんじゃないかと思えるのです。決して裏切ったりはしてないよ。


おわりに

とはいえ、やっぱりすごく寂しい。

だって初めて4を観たときにまず思ったのは「ああ、本当にもう会えないんだ」という思いだったから。

個人的にはボニーの家に帰らない選択をした時に、アンディのことが頭に浮かびました。アンディにもボニーにおもちゃたちを託したときには、知った相手だからこそ「いつかまた」なんて希望が少しあったんじゃないかなとか妄想してしまってたから。
(もちろん2度と会えない覚悟で譲ったことや、作品的にも別れとして描いているのは分かってるんだけどファンの希望的妄想でね……!)

野生のおもちゃになることで、アンディという名のかつての子供・私たちとも2度と会えないんだなって。そんな寂しさでいっぱいになりました。

でも同時に、目の前から消えてしまったおもちゃたちは世界のどこかで楽しく過ごしているかもしれないなんて夢も見られるのかなと思ったり。

私の中で、おもちゃとしてのウッディの死という答えになってしまったけれど、ウッディの意志はボイスボックスと共にギャビーギャビーに受け継がれていく。新たなウッディによっておもちゃと子供達の新しいトイストーリーが生まれていく。何より私たちもアンディもボニーもウッディと出会って一緒に過ごした大事な日々を忘れない。

おもちゃの終着点をここまで描き、その上でそれでも「どこかで繋がっていくんだ」というメッセージをしっかり込めたトイストーリー4はめちゃくちゃかっこいいと思うのです。

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