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【自己紹介】三十路に片脚突っ込みはじめた男のこれまでの人生を語る。(n=1)①

 恥の多い人生をおくってきました。どうにもならないことをどうにかしようとし、とりとめもない考えを辿りながら、紫煙を見るともなく見ています。はじめまして、きんえもんです。

 東はすぐ山、西はすぐ海そんな東北のとある都市で私は生をうけました。あまり人付き合いは得意ではありません。幼少期は1人でいる事が多く、泥混じりの雪で小さな雪だるまを作ったりしていました。小学校は母の意向で越境して通いました。小学生の初恋の相手が函館の寮制の中学校に入学すると聞き、後を追いたいと思った私は母に「わしも北海道に行かせてくれ」と嘆願しました。果たしてその願いは聞き届けられました。着いた先は函館から北北東に約340キロの街。なぜこうなった。ここはどこだ。見渡す限りの山々、ここが函館なのか。想像していたのと違う。というか、ここは函館ではないではないか!母は私の願いを叶えるために当時の職を辞し、文字通り家族総出で北の大地へと降り立ったのです。きんえもん少年の初恋は実りませんでした。目鼻がくっきりとしていて、笑うと吸い込まれそうな瞳、それでいて普段は知的な表情を浮かべる三つ編み、黒縁メガネのあの子に会う事はもうありませんでした。

 転入した小学校では自然の神秘を目の当たりにする事も少なくなく、将来は学者になろうと思ったものです。教師陣も皆、精力的で私の有り余る知的好奇心を無碍にしないようにと私を後押ししてくれました。日々勉強、フィールドワークに明け暮れるそんな生活を送る中で初恋のあの子はきんえもん少年の頭から次第に薄れていきました。     

 ある日、自宅のポストに怪しげなチラシが投函されていました。これが私の人生を大きく変える出来事だったように今は思います。「鳥人(ちょうじん)になりたくない?」という大きな見出しと大空を舞う人の姿。「ニーチェは解せん」と思いながらもチラシの下部に印刷されている電話番号に電話をかけていました。
 「超人にはなりたくありません。鳥人にはなりたいです。どうすれば良いですか?何が必要ですか?」電話を受けた方は最初、面食らっていましたがチラシの話をすると、
 「貴方が初めてです。そして、今のところ貴方1人しかいません」と喜びを露わにしました。聞くと、フリースタイルスキーと言われる競技の一種目の競技者を募っているらしく、行く行くは街から五輪選手を輩出したいとの事でした。

 明くる日「一度お話だけでもさせていただけませんでしょうか」と役所の〇〇さんが私と母に連絡をしてきた。貴方が最初の1人ということを言われて満更でもないし、身一つで空を飛ぶのは人類普遍の野望ともいえよう、私もその1人だった。かくして、私の競技人生が幕を開けたのでした。

 そこまで身体能力の高くない少年が五輪という人類の最強はだれかを決めるという戦いに挑める機会を得られたことに感動しました。今まで五輪なんてものはテレビの向こうの出来事で他人事だったものが身近に感じられたからです。日々練習、遠征に明け暮れた。と言いたいところですが、遠征先で出会う子に片っ端から恋をしていたような気がします。競技成績は振るわなかったが、中学校に入ると同時にナショナルチーム入りを果たしました。

 高校最後の全日本選手権で遠い過去に遠征先で出会った子に再会しました。その子は私の勇姿をしかと目に焼き付けたいといいました。そう言われしまっては大会で渾身の力を発揮するしかあるまい、と喜び勇んで練習しました。そして、怪我をしました。くるぶしの靭帯が伸び、くるぶしがとれました。不覚。不甲斐ない。大会の地を離れる際にその子は一緒に帰ると言いました。帰る方角がちょうど一緒だったのです。彼女の口から7年越しの愛を打ち明けられました。私はそれに応えられませんでした。その子はもう既に結婚しています。

 大学に入学するとほぼ同時に短い競技人生に幕を下ろすことに決めました。辞めてどうするかなどは考えていませんでした。ただ何も考えなかったわけではありません。自分を顧みた時にそれしかできない人間になっていたし、それしかできない自分が嫌になっていました。勉強をしよう、研究をしよう、そう思ったのです。

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