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「まほろばの景2018」のおもいで

関西を牽引する劇団「烏丸ストロークロック」の2018年初演「まほろばの景」が2020年、再創造のすえにふたたび上演されます。

演劇ファンならば楽しみになさっていた方も多かろう公演ですが、少しでもいろいろな方にご覧いただきたいと思い、微力ながら私も2018年に観劇をした思いを書きなぐって「生きるの大変★」と再確認した文章を掲載したいと思います。

当時の勢いをママと思ったのですが、ちょっと修正してます。
あまりにわかりづらいからな!笑


ここから2018年当時の感想文(加筆修正あり)

私たちは生まれた場所や時代を選べない。
そこで適応できないこと、上手に生きられないこと。

つまりは「生きにくいこと」。

それを受け入れて、やがて消えていくことは「正しい」のかもしれない。

という気持ちを抱いた、烏丸ストロークロック「まほろばの景」東京公演でした。

東日本大震災で被災した人々と、身体障がい者とその家族というセンシティブなテーマについて、私はそんなに語らずにおこうと思う。
もっとちゃんとした劇評をお読み頂いた方がいいからだ。

私が観劇後に抱いたまっさきの感想は「そんなこと言われても、どうしようもないよ!」であった。
ある意味でこの物語は、「正論」を語っていると思ったのだ。

被災して家を流されたけれど、家族は全員無事だった主人公が、「(失ってしまったこの今が)夢みたいだ。でも、自分はまだマシだったから被災者ヅラなんてしてはいけない」と、日本をさまよう姿にしろ。
夫がボランティアで駆けずり回っているのに自分は、「何かしなくちゃいけない気持ち」と恐怖で苦しむ被災した女性にしろ。
自分の人生を障がい児の弟に捧げてしまって、希望がわかない奈良の片田舎の女性にしろ。
私たちはそれを「苦しいだろうに。どうしたらいいのだろう」と、同情はできても彼らの代わりなんて絶対になりたくない。

そばにいてあげる。
お金を貸してあげる。
支援してくれる行政機関を探してあげる。

すごく現実的に、彼らを救う方法ってあるのかもしれない。
でもそうではなくて、これはあくまでも一つの事例なんですよ。

この舞台は私たちの心の中にある「生きにくい気持ち」を具現化しているんです。

私たちが普段、見ないように見ないようにと蓋をしている部分を見せてくれているんです。

夢とか目標ってそんなに必要なんですかね?生きる意味ってそんなに必要なんですかね?

でもさ、ないと生きられないよ。
そうしないと、私はつらいよ。

知ってるんだよ、なくてもいい。
そんなに思いつめて頑張らなくてもいい。

起きてしまった運命に抗おうとなんて、本当はしなくてもいい。

つまり、淘汰されたっていい。

もっと言うと、許されていいのだろう。

あなたは、ありのままのかなしい自分を受け入れることができるだろうか?

受け入れなければ、私たちはいつまでも苦しい。
そういう意味で、この物語は「正論」を語っている。

劇中、山の神へ懺悔して許しを請う修行者たちに混じって、主人公は山に登った。

置き去りにした障がい者の青年への罪を胸に抱き、厳かな山頂で、なにを見たのだろう。

私たちの本当の姿は、あいまいなのじゃないだろうか。良いも悪いもない、断定できないし、高尚でも美しくもない。
ただの生き物なのだから、「生きたい」だけでいいのかもしれない。

きっと、主人公は山頂にたどり着いて、誰もいないことに気付いただろう。
山には神がおわすのだとして、森羅万象の神が私たちごときのちっぽけな生き物に何を授けてくださるのだ。

誰もいない。自分しかいないよ。

削ぎ落とされた無力な自分が、ただわかるだけ。
だいたい、圧倒的な山の神を前にして、何を見せつければいいと言うのだろう。ただ生きている事実だけしか、示せない。

不器用に狡猾に、醜いけれど必死な、そして優しく幸せに生きたいその姿だけだ。

生き物は過酷だ。
それでも、ちゃんと呼吸をしていたい。生きることに、意味を見出すことをやめられない。

幕が下りて、たしかに私たちの気持ちはひとつだった。いろいろな思いを抱いていたに違いけど、表現できないとてもあわあわとした気持ちだったと思う。

答えのない問いかけを、悩みぬかれたであろう泥だらけの両手で渡されたようだった。きっと死ぬまで、わからないだろうに。

ちょっと辛くなって来たのでポプテピピックの最新話を吸ってくるわ。みんな、「まほろばの景」をぜひ観てね。

かしこ。

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