蛙の見た夢(夢、蛙、耳)

 ぶくぶくと上昇していく気泡。明るい日差しが水面から差し込み、水草がゆらゆらと踊る。ヤゴや魚、ザリガニたちはとても恐ろしいが、こちらにも苦楽を共にする仲間たちがいる。僕たちはオタマジャクシと呼ばれている。この外見も案外気に入っている。黒い身体に長い尻尾。手足がないから不便なことも多いけど、それでも生き延びていける事実は痛快だし、大人になれば立派で強い蛙になれるのだからまぁ、悪くない。
 総じて、この世界は中々だと思う。
 僕は耳がよく聞こえた。仲間の声だけじゃなく、僕たちを捕らえ、食べようとする敵の声も、水草の揺蕩う声も。食料を見つけることも、敵を見つけることも簡単だ。仲間に知らせて、皆で協力して生き延びてきた。勿論、きついことも沢山あった。逃げ切れずに死んでしまった仲間も数多くいる。この世界では仕方のないことと分かってはいるが、やりきれないものがある。そういう時は決まって隠れ家に籠もった。微かに流れる水たち以外、誰も知らない場所で静かに過ごした。こんな日々を繰り返して、いつか立派な手足を生やし、外の世界に打って出るのだ。多くの仲間と共に。

 その日は徐々にやってきた。寒い日が続いていた。水の温度は日々下がり続け、水草もどんどんやせ細っていった。産卵を終えた魚たちは死に絶え、それも食べ尽くした。卵もだ。そして終に、食べ物がなくなった。
 仲間の一人が餓死した。
 それを仲間の一人が、恐る恐る口にした。
 そこからはもう、地獄だった。
 僕たちは、僕たちを、食べることができる。何て呪わしいことだろう。共食いの遺伝子が僕たちには組み込まれていたのだ。そうまでして生きなければならないのか。そこまでして生きる価値があるのか。僕の良い耳は、皆の怨嗟の声もよく捉えた。こんなもの聞きたくなかった。餓鬼と化した仲間たちから逃げるために、僕はひたすらに隠れ家に籠もった。空腹から逃れるために、ぎゅっと目を瞑った。
 夢を見た。
 そこで僕は、大きくて立派な蛙になっていた。手足は青々と逞しく、漲る力を太ももに込め大空に向け跳躍した。一等高い葉の上まで登り詰め、誇らしげに喉袋を膨らまし、高らかに鳴いた。呼応するように、大勢の仲間たちの声が上がった。
 目覚めた時、僕は泣いていた。そうだ。僕たちはオタマジャクシだ。この窮地を乗り越えれば直ぐに大人になり、蛙になるのだ。そうすれば、外の世界に出さえすれば食料はある。僕たちに明日はあるのだ。
 隠れ家から抜け出そうと動かした下腹部に違和感。足だ。僕は足を得た。あれは、正夢なのだ。

 落ち葉や他の死骸で生きながらえている内に、手が生えた。尾が短くなる頃には、寒さも随分和らいでいた。振り返ると数多の仲間は、一握りになっていた。僕たちは、僕たちの屍の上に立っていることを、強く実感する。

 そしてその日はやってきた。
 いよいよ外へ。
 輝かしい未来へ。
 夢が正夢となる瞬間だ。少なくなった仲間と共に、陸へ上がる。
 初めて踏みしめる土。全身を撫で抜ける空気。目に飛び込んでくる色とりどりの草花。外気は暑く、極彩色に彩られた世界は、大きな希望と恐怖をない交ぜに放り投げてくる。
 これが外の世界か。これが大人になるということか。こんなに広い世界なのだ。もう食料不足に悩まされることもない。もう仲間を喰わなくても良いのだ。なんと素晴らしき世界か!
 刹那。隣にいた仲間が消えた。今正に喜びを分かち合っていたはずの。
 驚いて見やると、大きな蛇だった。見上げる程の長躯。底のない、暗い目。口内に飲み込まれゆく仲間の足。
 私たちは声にならない悲鳴を上げ、散り散りに逃げた。
 息も絶え絶えに逃げ惑い、漸く見つけた木の洞に身を隠す。暗がりから外の様子を伺うと、一匹の虫が歩いているのを認める。俄に腹が減った。私は洞から一歩も動くことなく、舌を伸ばし、その虫を食した。
 バリバリと小気味よい咀嚼音を立てると、口腔内から幽かな、怨嗟の声が聞こえた。私は吃驚してそれを吐き出す。その虫はひしゃげた身体を引きずりながらどうにかこうにか洞から抜けだしたが、数歩いったところで力尽きた。
 その亡骸に、あっという間に蟻が群がった。蟻の声がした。怨嗟の声だった。
 恐怖を覚えた私は、洞から転がり落ちるように逃げ出した。そして声から逃れるために高く、高く跳躍した。
 一等高い葉に辿り着くと、私は辺りを見渡す。
 そこかしこから、色んな生き物の声が聞こえる。生きる苦しみに充ち満ちた、声が。
 私は鳴いた。
 ここも地獄なのか。こんなもののために仲間を喰ったのか。こんな世界のために生きてきたのか。喉袋を膨らませ、声の限りに泣いた。仲間たちの声はもう、聞こえなかった。
 月夜だった。
 大きな満月から、鳥が降ってきた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?