会いたくても会えない人はいますか。

もし会えたとしたら、どうしたいですか。

20XX年、秋。

ちょうど当時勤めていたブラック企業から転職を考えていた頃。

母が病に倒れた。白血病。

当時、地元を離れて暮らしていた私は辞表を叩きつけ

慌てて実家のある九州へ戻った。

「なかなか、あんたには言いきらんかったとよ…」と話し始めた叔母。

「姉ちゃん、見て、て言うてからね。シャツを捲ったらお腹のところに

灰色みたいななんとも言えん色の斑点のごたっとができとってから。

見たことないような斑点だったけん、

すーぐ病院に行きなっせて言うて、病院行ったら入院て。」

「私にはなんの連絡もなかったよ。」

「県外で頑張りよるあんたには言いきらんかったんじゃないと。」

母の姉にあたる叔母には、

幼い頃からいとこたちと分け隔てなく可愛がってもらっていた。

まぁ、昔から自由奔放だった母。

母と叔母の姉妹も母の自由さには手を焼いていたようだ。

実際私も母が再婚してからはあまり家には帰らず、

祖父母か叔母の家で過ごし、一緒に暮らすことはなかった。

連絡すらまともに取っていなかった、と思う。


翌日、病院に向かった。

「ママ、大丈夫とね。」

「ごめんねー。忙しくしとるのに心配かけてから。

病院がつまらんけんたまに抜け出しとるよ。」

「いや、元気やん。逃げ出す元気あるなら安心したよ。」

それからは、やれ病院食が美味しくないだの文句やら、

再婚した相手方の息子の嫁の愚痴や私の仕事の愚痴やらを

延々ガールズトークみたいに話していた。

「なら、また様子見に来るけんね。」

「うん。ありがとう。大丈夫だけんママのことは心配せんでいいけんね。」

「ママも無理せんようにね。」

そう言って病室を出た。


母の病院の近くに就職が決まり、

特殊な勤務形態だったため出勤前に病院に行くのが日課になった。

そうして数ヶ月、そんな日々が続く。

まだ50にもなっていない母、若い人のガンは進行が早いと聞く。

母は抗がん剤の治療をしながらドナー待ちの状態。

副作用で食欲不振、髪が抜けるのも昔小綺麗にしていた母には辛かっただろう。

それでも母は移植ができれば良くなるから、と前向きだった。

ママが死ぬわけない、また元気になる。

私もそれを信じて疑わなかった。

そんな時、移植のドナーがみつかり手術が決まる。

ドナーが見つかるだけでも奇跡、神様はいる。

ありがたいことに手術は無事に成功し経過は順調のように見えた。


術後、から母は数値をずっとメモに取っていた。

「何を一生懸命書いとるん?」

「暇やから、数値をメモしとるんよ。ここの数値が上がってきたら

退院できるんやて。」

「そっか。移植も上手くいっとるしすぐ退院できるやん。」

母が事細かにメモしていた数値はなかなか上がらなかった。

抗がん剤治療も辛いようで、嘔吐や節々の痛みも我慢できず

モルヒネで眠っている日も増えていった。

「また来るからね」と病室を去る私に

「今度はいつ来る?何時くらいに来る?」と追うことも増え、

一日開けてしまうとメールで明日待ってるからね、と念押しされた。


母の数値が上がらないと言っていた頃、

私はダメもとで調べていたことがあった。

”生き別れた二人の兄を探すこと”

子どもの頃からよく聞かされていた。

「お兄ちゃんが二人いるんだよ。会いたい?」

生まれた時には兄はおらず、まぁ一人っ子で

祖父母の愛情も独り占めで満足だった私は

「そうなんだ。別に会いたくはないよ。」と

可愛げもない回答をしていた記憶がある。


ダメもとでFacebookを開く。

兄の名で検索をかける。

数名ヒットし、一人の人のtop画像を見て確信した。

この人だ!!!!!!

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