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宇和島の2週間

 幼稚園に入る前だから4歳の時だったと思うが、
愛媛県宇和島市の母方の実家に、1人で預けられたことがあった。

 母に連れられて東京駅から
夜行の急行「瀬戸」に乗ったのは夕方6時頃だったと思う。
当時の東海道は一部区間が未電化で、
機関車が、葡萄色の客車を引っ張っていた。
4人がけのボックスシートの片側に
母と並んで窓側に座ると、やがて静かに動き出した。

 駅弁を食べるうちに外が暗くなり、いつの間にか眠ったが、
夜中に目が覚めると自分はシートに横になっており、
端の方で母が窮屈そうに座っているのを見て
申し訳ないと思いつつも、そのまま再び眠ってしまった。

 夜汽車はひたすら西に向かい、やがて夜が明けて明るくなるころ、
瀬戸内海の宇野港に到着した。
汽車を降り母に手を引かれて下を向いて歩いているうちに、
いつの間にか高松に向かう連絡船に乗っていた。
静かな瀬戸内海を滑るように進み、高松に着くと、
今度は予讃線の「せと」に乗り、再び一路西に向かう。
途中、松山を過ぎるときに、ここはお父さんの実家だと言われたが、
4歳の私は、父と母の実家の区別がよく分からなかった。
更に数時間後、無事終点の宇和島に着き、
母の実家、祖父の家に着いたときは夜の10時頃だったと思う。
東京から丸一日以上かかったことになる。
お風呂に入って直ぐに寝たが、あくる朝起きると、既に母がいない。
朝早く発って東京に戻ったとのこと。

 宇和島には2週間いた。
祖父は、元は宇和島市長だったが、
当時は、倉庫、ホテル、真珠の養殖などの事業をしていた。
4人の娘(母は長女)は全員他家に嫁いでおり、
祖母と2人だけで住んでいたから、些か寂しかったのかもしれない。

 祖父が夕方帰宅し、酒と食事を終えると、毎晩客が来て、花札をしていた。
今思えば、何がしかを賭けていたとは思うが、
それほど熱くはなっていなかったから、さしたるものではなかったのだろう。

 祖父や客のお世話は祖母が担当し、
私の食事その他もろもろは、住み込みのお手伝いさんが担当していた。
年は20代半ば、気の利く優しいお姉さんだったが、
役目柄当たり前だったのかもしれない。
当時、私はおとなしく内に篭る方で、多少のことは我慢するから、
扱いやすかったかとは思う。

 2週間ほどたったある日、母が迎えに来て東京に戻された。
あの時、何故姉が一緒でなかったのか、
何故1人で2週間も預けられたのか、何らかの事情があったのだろうが、
何となく母には訊きにくく、そのままになってしまった。

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