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両親 7.父の左遷

 1965年(昭和40年)に私は大学の理系に入り、直ぐに教習所に通って運転免許を取得した。家では、それを待って自家用車を購入し、一家の運転手の如く母や姉に便利に使われたが、自分でも、いろいろと楽しんだ。

 私が大学4年のとき、父が広島に飛ばされた。初の左遷だ。ある平日の昼、異動を告げられた父がそのまま家に戻り、スーツ姿のままで母と深刻に話している様子は、いまでも覚えている。今思えば、会社で順調を歩いている人ほど、上に行くにしたがって人数が絞られるから、ある時点でラインから外れるのは普通、特に経営中枢に近い人なら、誰でも経験することだが、父にとってはこの世に生を受けてから初の挫折、ズシンと響いたようだ。年齢は52歳だったから、約30年後に、私が新潟に左遷されたときとほぼ同じタイミング、歴史は繰り返すらしい。
 
 広島には単身で赴任し、母が1,2か月に一度1週間ほど広島に行き、怠りなく、監視をすることとなった。父は当初は落ち込んでいたが、ほどなく気を切り替えて、本来の「今を楽しむ」主義を取り戻し、広島生活を楽しんだ。平日の夜は会食と2次会、土日はゴルフ、母がいる時は小旅行が定例だった。東京でも同じようなものだったが、単身赴任だったことと、広島では上に誰もいなかったら、更に羽を伸ばして徹底したようだ。
 
 母は、父の左遷を受けて身を処すとして、ゴルフをスパッと止めた。実際は歳を自覚したこともあるかもしれない。しかし、長年の習性から、何も楽しみがないことには耐えられるはずはなく、直ぐに長唄に入れ込んだ。渋谷の某流派の家元に通い、三味線もさることながら、歌が得意で、それなりに認められ、定例の(発表?)会では、プロの三味線をバックに、 船弁慶などを、独唱(?)していた。

 母は酒が好きで、毎晩夕食時に日本酒をコップ一杯のんでいたが、長唄の師匠(女性)も酒好きで話が合うらしく、時々当家で、二人で飲んで酔っ払っていたことを覚えている。

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