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④ 二人で暮らせる限り人形町に住む

 文芸春秋新年号の特集「私が大切にしている10のこと」を真似て自分を振り返り、以下の10項目をあげてみました。

① 全ての人と横の関係
② 監視人殿(妻)には決して逆らわない、
③ 息子達に必要な援助はおしまないが、口はださない、
④ 二人で暮らせる限り人形町に住む
⑤ 驕らず、転ばず、風邪ひかず
⑥ 自分の病気のことはネットで徹底的に調べる
⑦ 毎日リハビリ運動とリハビリ散歩をかかさない、
⑧ いつも上機嫌なふりをする、
⑨ 日記を書く
⑩ 本を読み、1行コメントを書く

今日は④を説明します。

④    二人で暮らせる限り人形町に住む
 
 61歳で、東京に転勤したので、新潟から横浜の自宅に戻って、人形町の本社に通勤し始めた。しかし、通勤時間は往復3時間、朝早くに家を出て夜遅くに帰宅する、若いバリバリのサラリーマンではなく、これは無理だと、取りあえず、人形町の会社近く(徒歩5分)に狭い仮住まい用のマンションを借りた。1年程の第一次人形町時代だった。
 
 1年後、会社のリストラを進め、本社機能を埼玉の工場に移したので、私も埼玉の大宮にマンションを借りて人形町から転居した。大宮も便利で住みやすいが、数年後のリタイアを考えて、横浜に家はそのままにして、人形町にも住まいを確保しようと、半年ほどマンションツアーを繰り返し、甘酒横丁から2筋入ったところに、気に入ったマンションが見つかって購入した。直ぐにすむわけではないので時間をかけてリフォームし、家具を購入して、半年後に人形町に住み始めた。第二次人形町時代だ。
 
 67歳で会社をリタイアすることになり、後は人形町に住み、晴ゴルフ雨読のつもりだったが、意外にも姫路の某社からぜひ来てほしいとスカウトされ、応じることにした。今度は姫路の駅近くにマンションを借りて初の関西生活、仕事では色々あったが、土日の散策、小旅行などで楽しみ、あっという間に7年経過した。2年前、74歳で退任して晴れて無職になり、人形町の自宅に戻って、今、第3次人形町時代中だ。
 
 横浜、新潟、大宮、姫路、どこでも住めば都だったが、中でも人形町は格別、一度住むと、よほどのことが無い限り、離れがたい。都心のオフィス街と旧い下町を併せ持ち、独特の風情がある。監視人殿は、普段着で外出してもその他大勢だから気にならないと言う。食べ物屋は、安さが売り物の大衆店から世に名の知られた高級店まで幅広く、いくらでもなんでもある。地下鉄が4路線、何処に行くにも便利この上ない。日本橋、銀座、築地、上野、浅草にはいずれも数分で行ける。
 
 住んでみると便利な事には驚くばかり。近隣にスーパーが数軒、個人商店は何でもいくらでもある、クリニックは何科でも何件もある、郵便局は3件あり、品川区役所の出先機関もあり、全てが間に合う。水天宮、明治座が近く、休日には多くの人で賑わう。加えて、浜町の緑道、公園、隅田川沿いなどは絶好のリハビリ散歩コースだ。今の我老夫婦の生活は、人形町に住んでいることが大前提、外では生きていけないのである。
 
 この先、二人で住める限りこの自宅にいるつもりだが、冷静に考えると先の事は分からない。世の夫婦の大部分は夫が先に逝くものであり、当家も例外ではなさそうだ。監視人殿が独りになったらどうするか・・・・考えておいて欲しいと言うが、私が考えても仕方がないのだ!

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