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ダメダメ職員、出戻りました!

誰かの、何かの役に立っていなければ、今自分はここにいてはいけないような気がする。

「生産性」という言葉が、重く重くのしかかる。効率よくスマートに確かな成果を挙げなければ…私の代わりなどいくらでもいるような気がする。というか、私より有能な人は腐るほどいて、時々、こんな私にお給料が支払われていることが申し訳なくなることもある。そうは言っても生きていかなければならないわけで、飲みながら「みなし残業意味わからん」とか愚痴っている私もいるのだ。我ながらわがままだと思う。

私は、半年間の「積極的無職」期間を経て、今月から仕事を始めた。

職場は丸の内のオフィス街、ランチはキッチンカーに買いに行くのが毎日の楽しみ!……とか言ってみたい。

実際はというと、市内でも有数のディープなエリアにある精神障害がある方たちのグループホームの世話人のバイト。世話人バイトは何の仕事をしているかというと、施設内の清掃、夕食作り、メンバーさん(精神保健分野では、利用者のことをメンバーという)の話し相手や生活スキルの指導、通院や区役所での手続きの動向等、地味ではあるがメンバーさんの生活を支える上で、重要な裏方を担っているのである。

社会福祉の現場で、社会からドロップアウト

前職では、障害者施設と医療機関のソーシャルワーカーをしていた。

「最近、何かお困りのことはないですか?」

面談室で、利用者さんのご家族にそう問いかけることで、いかにも「相談援助してますよ」感を感じられた。また、職場には医師や看護師もいて、わかりやすく「他職種連携してますよ」感もあった。

知識と言葉を武器に仕事をするソーシャルワーカーこそ、真のソーシャルワーカーだと、勝手に幻想を抱いていたのである。

実際にソーシャルワーカーとして働いてみて、これが幻想だったのだと気付いた。

ソーシャルワーカーとして働く前は、精神障害の方のグループホーム(現職)で世話人のバイトを3年ほどしていた。バイトなので、当然、個別支援計画の作成業務などもない。資格を持っていようが、持っていまいが、バイトの業務内容は同じで、私以外は皆ほぼ子育てを終えたパートのおばちゃんたちばかりであった。

業務内容は、上記の通り。どちらかといえば肉体労働だ。職場も古く、綺麗とは言い難いところもある。キラキラOL女子とは程遠く、汚れてもいいような服装で、スカートなんて履けやしない。仕事が終わる頃には、夕飯作りで顔が油まみれになっていて、ベタベタしてひどい。

メンバーさんの多くは統合失調症の方たちだ。人によってはこだわりが強かったり、昨日した話を今日またするなんてこともある(3年間同じ話を聞き続けた)。

3年働いたところで、グループホームの仕事に対してやりきった感を感じた。そして、「次は相談援助をするぞ!」と、前職に転職したのである。

ところが、いざ転職してみると想像していたものとは少し違っていたのだ。

「医師不足」とよく耳にするけれど、確かに医師不足なのだ。そして、医師がいなければ回らない業務が意外にも多いことを知る。業務が回らなければ職場の雰囲気も何となく悪くなる。そして、これまで3年間グループホームで培ってきた利用者とのコミュニケーションの方法を180度改めなければならなくなった。「私のやり方」として自負していただけに、それを取り上げられることは悲しかった。

スタッフも足りない、社会資源も足りない……足りないものばかりで余裕がない。「社会人なんだから」と、ビジネスマナーの鎧をまとわなければいけないのも嫌だ、あれ、これは本当の私だっけ? あれ、これがずっとやりたかったソーシャルワーカーの仕事だっけ? だんだんと疑問ばかりが増え、次第に仕事に行きたくなくなった。

気づけば、入職して5ヶ月目には「辞めたいです」と上司に言っていた。忙しすぎて上司に相談事をする暇もなかった。初めて上司にした相談は「辞めたいです」だった。

「引き継ぎがあるからあと3ヶ月は残れ」と言われたけれど、「職務規定には退職の1ヶ月前に申し出ると書いてありますから」と、職務規定を押し通して、どうにか退職日を1ヶ月後にしてもらってあっさり辞めた。後悔はしていない。

支援の現場で支援者側が社会からドロップアウトする現象って、別に珍しいことではないけれど、少し皮肉だなぁと思う。

「役に立たなければ」という焦燥感

前の仕事も嫌いではないけれど、自分には色々合わなかったんだなと思う。

退職後は、ボランティアしたり、友達に会ったり、エッセイを書いたりしながら「積極的無職」を謳歌した。好きな時間に起きて、好きなことをする、自由って最高!って思った。けれど、貯金は無くなるし、だんだん何も生み出していないことに後ろめたさを覚えるようになってきた。「生産性」という言葉が私に重くのしかかった。「今頃みんな仕事してんのか……」そんな風に思うことが増え、焦燥感に駆られた。

立派に「正社員」になり、給料を稼ぎ、人の役に立たなければ……。見栄というか下心というか、プライドというか……。もはや、これらすべての条件をクリアしないとダメ人間なような気がして、苦しくて、給料とか立地とか、そういうものを重視して求人に応募した。次第に、「これは本当にやりたいことだっけ?」と自分の中で疑問が大きくなるばかり。

ある日、メディアの仕事をしている友人が、精神障害について取材していると聞き、「そういえば、神原さんも以前、精神障害の方の施設で働いていたよね?」と聞いてきた。「どういう仕事をしていたのか」と聞くので、私は思い出話として、世話人時代の話を始めた。

予想外上等

「炊飯器の電気コードのしまい方を教えてました」

炊飯器の電気コード。手前に少し引くとしゅるるるると巻き戻るアレである。

統合失調症の能登さん(仮名・50代男性)は、私が夕食作りを始めると必ずキッチンがある交流室にやってきては、毎日のように「空手は〇〇空手と△△空手、どっちがやってみたいですか?」とか「奇跡は信じますか?」などを聞いてくる。

空手は大学の体育の授業で少しかじった程度で、自分がどういう流派の空手をしていたのかは分からない。奇跡に関してはハッキリと「ないと思いますね」と答えた。同じ話題を毎日繰り返すのは流石にしんどい時もある。そんな時、タイミングよく炊飯器がピーっと鳴ったので、「能登さん、配膳の準備してもらってもいいですか?」と、お手伝いを依頼する。

「じゃあまずは、炊飯器を移動して、ご飯をよそいやすい場所に置いてください」

コンセントを抜く、カウンターキッチンのカウンターに炊飯器を置く。「できました」と、どうだ、という表情をしている能登さん。そして、ぶらりと垂れ下がった電気コード。

「能登さん、コンセントしまうのもお願いします」

そう言うと、ドヤ顔をしていた能登さんの表情が少し曇る。

……おや、能登さん、もしかしてコンセントのしまい方が分からないのか?

「少し手前に引くと、巻き戻されるのでやってみてください」

まずは口頭で伝えてみる。「嘘だろ」とでも言いたいような顔をする能登さん。炊飯器本体を片手で押さえ、もう片方の手で電気コードを持ち、手前に引く……と、思ったら、ぐぐぐぐぐぐとものすごく力強く電気コードを引っ張っている。顔が必死。

千切れる……!電気コードが千切れる……!

急いで能登さんを制止する。そうか、電気コードを手前に引く力加減がわからないのか……。これは予想外だった。予想外上等。

私たちが普段何気なく行っていることも、彼らにとっては難しいこともある。正直、炊飯器の電気コードがしまえなくたって、生きていける。能登さんに教えるよりも、私がやってしまった方が圧倒的に早い。けれど、それでいいのだろうか。一つでもできることが増えたら、それは嬉しいことなんじゃないだろうか。それが、電気コードの収納だとしても。

「こうやるんです、見ててください」

まずは私がやってみせる。「じゃあ、次やってみてくださいね」と、しまわれた電気コードを再びぶらりと垂らす。

ぐぐぐぐぐぐと思いっきり引っ張られる電気コード。「軽くです。少しでいいです」と声をかける。

「あれ、おかしいな」という表情をしながら、本人なりに加減をしている様子。少しの間電気コードと格闘していると、しゅるりと電気コードが炊飯器に吸い込まれていった。

「おーーーーーー!!!」

喜ぶ私とは反対に、能登さんはなんだかあっけない表情をしている。

もしかしたら、これはまぐれだったのかもしれない。けれど、さっきまでできなかったことが、できるようになって、私は嬉しかった。

「電気コードもしまえるようになったし、これからは能登さんに炊飯器の準備お願いしますね」と言うと、「は、はい……」と、能登さんは小さく笑った。

安心できるあの場所へ再び

「前の職場の話をしている神原さん、いい表情してますね」

思い出話を一通り話し終えると、友人はそう言った。

確かに、前々職(現職)の話はどれも懐かしく、キラキラした記憶として、私の中に残っている。時々嫌な思いもしたけれど、それでも自分に合う仕事とは、いつまでも心の中にキラキラしたものを宿し続けられることを言うのかもしれない。そうした、自分が安心できる場所にいられるということは、自分を肯定できるということなのだろう。電気コードがしまえるようになっても、大きく社会を変えることはできない。生産性もほんのちょっとしかないかもしれない。けれど、能登さんと私には少しだけ変化があったと思う。だから決して、電気コードをしまえるようになったことが無意味であるとは思いたくない。

また、あの場所に帰りたいと思った。「また働かせてください」と言うのに、少し恥ずかしさもあった。けれど、私はまたあの場所に戻りたいと思った。

結果的に、キラキラOLにはなれなかった。だけど、心の中でキラキラしたものがある。それでいい、今はそれでいい。大して生産性はあげられないかもしれない。けれど、心のキラキラがあることで、生産性に対する不安というのは、次第に薄れていった。

明日はどんなことで予想外のことが起こるだろう。それに対して、どんなアドリブ対応ができるだろう。福祉は実にクリエイティブだ。





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