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「人のセックスを笑うな」を観てしまった。

昨夜、山崎ナオコーラ原作の「人のセックスを笑うな」の映画を観た。

ただ何となく、ベッドに寝転びながらアマゾンプライムビデオを見ていたら作品があって、割と最近、同作者の「ブスの自信の持ち方」という書籍を読んだこともあり、「山崎ナオコーラという人を知る上で、人のセックスを笑うなは避けて通れないよな…」と思った。それまではあまりにどストレートすぎるタイトルに食わず嫌いして観ることができなかったのだけれど(でも気になってはいた)、今なら見れるような気がして、あまり深く考えずに観始めた。

結論から言うと、観終わって「つらい」という感情しか湧かなかった。このつらさをどうしていいのか分からず、エンドロールが終わりきる前にスマホのアマゾンプライムビデオの画面からTwitterの画面に切り替えた。

誰かにこの思いを共感して欲しくて、Twitterの検索画面で「人のセックスを笑うな つらい」と検索した。すると、表示されるのは「ユリ(永作博美)が良すぎてつらい」的なツイート。良いものに「つらい!」という感情を抱くのは分かる。しかし、今回ばかりは「ユリが良すぎてつらい」には共感できなかった。検索のキーワードを「人のセックスを笑うな しんどい」に変えても、答えはほとんど同じで、表示されるのはわたしとは真逆の感情ばかりで、感情の分かり合えなさがまたつらかった。

原作を読んでいないから、あくまで映画を観ただけの感想になってしまうけれど、この作品がわたしをつらくさせる要因がいくつかあるので、それらを一つ一つ解説したい。

まず、みるめ(松山ケンイチ)に激しく共感してしまったことだ。そもそもこの物語は39歳のユリと、19歳のみるめを中心に描かれたラブストーリーなのだけれど、「年上の自由奔放なユリに知らないことの方が多い年下のみるめが振り回されている」というような印象を受けた。色んなことを知らないが故に、みるめはユリにどハマりしていったのだと思う。そこからみるめの余裕のなさというか、ユリと20歳という年の差があることで、圧倒的にユリの方が人生というか精神的な余裕があるのだ。わたしはユリよりもみるめの年齢に近い側にいるし、ユリがみるめに見せる余裕を、わたしにも向けられているような気持ちになってしまった。「みるめはこんなに必死なのに、どうしてそれを、ユリはこんなにも簡単に振りほどいてしまうのだろう」ユリがみるめを弄んでいるようで腹立たしい、のではなく、心のどこかで「必死には、それ相応の必死さで返して欲しい」という気持ちがあるのかもしれない。やはり、自分の余裕のなさ、経験値のなさからくる相手との「対等になれなさ」を、ユリとみるめを見ながら疑似体験してしまっていたのだと思う。

そんな、必死なみるめを自由奔放に振り回すユリ。そんなふたりの関係は言ってしまえば「不倫」なのだ。Twitter上でも「こんな明るい不倫見たことない!」みたいなツイートをしている人がいたけれど、確かに全くコソコソしていないのだ。これはあくまで個人的な考えだけれど、不倫って、ふたりだけの秘密だから燃え上がってしまうのだと思う。けれど、ふたりにそんな様子はない。「わざわざ隠す必要も、言う必要もない」といった感じだろうか。みるめはみるめで、ユリが既婚者であることを最初に聞かされていなかったから、自分たちは「付き合っている」と思っていたし、既婚者であることを知った後もむしろ加速度的にユリにどハマりしていくし、ユリはユリで「触ってみたかった」を理由にみるめと関係を深めていったのだから、これが何とも自由奔放というか、ここでもまた大人の余裕を見せつけられているような気がする。不倫は不倫なのだけれど、重々しくもなく、どこかカジュアルでピュアでまっすぐなふたり。とはいえ、明るい不倫って何だ???

ユリには猪熊さんという優しい夫がいる。おっとりしていて、熊のキャラクターみたいな猪熊さんにユリは愛されている。「女の嫉妬」と思われても仕方ないと分かっていて書くけれど、ユリはずるいと思う。優しい夫に愛されて、それだけでは飽き足らず、「触ってみたかった」とみるめにも手を出して欲張りなところ。みるめとの関係を知ったら、猪熊さんは何て思うのだろう。そして、そのことについてユリは考えたりしないのだろうかという疑問。それと、精神的な余裕と、そこから来ているであろう自由奔放さが大人らしさと子どもらしさが共存しているところ。本当にずるい。わたしだって男の子のぶかぶかのパーカー着たいし、うちには石油ストーブはないけれど、ストーブに灯油を入れてもらいたい。何より、精神的な余裕を持ちたい。ずるいずるい。ユリは本当にずるい。ユリがあまりに余裕で楽しそうなので、ユリの弱い部分を見てみたいと思ってしまった。

物語の終盤で、ユリはみるめの前から姿を消し、音信不通になる。気になって仕方がないみるめは、ユリと猪熊の不在の家を何度も訪ねて、ある種のストーカー化してしまう。ここもまた、みるめの気持ちの切り替えられなさと必死さが垣間見えて「ああ〜〜〜」となった。

物語は最後「会えなければ終わるなんて、そんなものじゃないだろう」という言葉で締められる。きっと、会えなくても「心と心が繋がっていれば」とか「精神的に繋がっていれば」とか、そういう意味なのだろう。けれど、わたしは精神的にお子様なのでそんな余裕もなく、「えっと。できれば好きな人にはなるべく会いたいです」と思ってしまった。いくらラインやSNSなどで遠くにいる人と簡単に繋がっていることができるとはいっても、「会う」に勝るものはないでしょう?

遠くに住む友人、仕事で遠くに行ってしまうかもしれない友人、天国へ旅立ってしまった友人…。会いたいときに会えない寂しさ、会えなくなる寂しさ、いくら強い関係性があったとしても、わたしはまだ「会えなければ終わるなんて、そんなものじゃないだろう」とは言い切れない。好きな人たちの顔を見たいし、くだらない内容でいいから話をしたいし、非言語にも触れたい。「会えなければ終わるなんて、そんなものじゃないだろう」わたしも胸を張ってそう言える日が来るのだろうか。

「人のセックスを笑うな」で指す「セックス」は行為そのものの「セックス」ではないのだと思う。わたしが思ったのは、きっと「ふたりの関係性を笑うな」ということなんじゃないかと思った。「不倫相手」とも「恋人」とも言い難い、曖昧な言語化できない、もしかしたらする必要もない関係性に、「赤の他人がとやかく言うな」そういうことなのかもしれない。ただ一人、とやかく言っていいとするならば、それは猪熊さんだけな気がする。

映画を観終わったのは、夜10時。何だか寂しくて、つらくて切ない気持ちになった。Twitterでも同じ気持ちの人はいそうにない。何だかお腹が空いてきて、遅い時間だったけれど、ご飯と鯖の半身を食べ、ビールを飲んだ。なぜかいつもよりご飯が美味しく感じられた。けれど、やっぱり切なくて、ビール1本で酔ってしまったわたしは、ベッドに戻ってごろんと横になった。

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