見出し画像

蜘蛛

女郎蜘蛛が居た。
下宿先の古アパートの階段の踊り場に、粗末なトタン屋根を支える錆びた鉄柱とペンキのひび割れた壁との間に、一本糸をぴんと張り、"彼女"はそこにぶらさがっていた。美しくも毒々しい、黄色と黒との縞模様でしつらえた扇情的な衣装に身を包んだ彼女は、ゆらゆらと、危なげにも優雅にも思える足取りで糸のうえを綱渡りしていた。宙を渡る彼女の後景には、雑多な街並みと夕空が張り付いていた。夕空には雲が浮かび、街には甲虫の群れのように色とりどりの車たちが行き交っていた。それを眺めて、私はただただなんとなく、蜘蛛は雲になることを夢見ていると考えた。そしてその夢に、私は痛ましいほど切ない共感を覚えた。

明くる日、私が仕事のために玄関を飛び出すと、彼女は以前として昨晩と同じ場所に浮かんでいた。けれども、己の張った巣にがんじがらめに絡まって、白い繭のように丸くなった彼女はみじろぎ一つも、悲鳴をあげることすらできずに動かなくなっていた。哀れに思った私は指で糸を千切り、彼女を両の掌でそっと包んだ。そして後日埋葬してやるために、ひとまずは亡骸を家の隅で埃を被っていた空の水槽へ入れ、忘れぬよう玄関先に置いてから出勤した。

その日は仕事を終えたあと、同僚と酒を飲み、零時近くに家に帰った。覚束ない足取りで玄関を開くと、今朝と何も変わらぬ様子の水槽が私を出迎えた。ホコリで磨りガラスのようにぼやけて見える水槽の底には、黒い塊を包んで丸まった真っ白な繭があった。
その時から、私はどうしてかたまらなく気分が悪くなった。酔ったせいなのか、あるいは冷静になったからなのか、ともかく一刻も早くその水槽を自分の視界から遠ざけたいと強く願った。私は水槽に手を入れて人差し指と親指で繭を掴んだ。べたべたとした表面の内側から蜘蛛の脚と外殻の感触が伝わってきた。繭を手にして改めて水槽の方を見ると、嫌悪感は伝わってこなかった。繭を戻すとまた嫌な感じがした。
どうやら言い得ない嫌悪感は蜘蛛の死骸の方からではなく、死骸の入った水槽の方から生まれるらしかった。あたかも死骸を飼っているかのような、反倫理的な錯覚に苛まれたのであろう。私は痰の如く喉の奥でべったりと張り付いた嫌悪感を飲み下すために、買ってきたチューハイのプルタブを開け、喉をならして一息に煽った。甘ったるい酩酊は嫌悪をまぎらわすどころか倍増させた。かぶりをふって、次は缶麦酒を煽った。まだ足らないようだ。まだ視界の角で水槽が私を見つめていた。今度は棚で埃をかぶった日本酒の一升瓶を取り出してきて、コルクを飛ばしてらっぱ飲みをした。水槽は視界の端でいよいよその質量を増し、私を内に収めようと大きな蓋をずらし始めていた。

「嗚呼、駄目だ!」

もはや我慢ならなくなった。
私は机の引き出しの奥から、子供の頃に遊んだことのある銀玉鉄砲を取り出した。
マガジンに詰められた銀玉を確認し、ノワールの活動写真よろしく勢いよくスライドを引いた。
水槽を前にふらふらとした足取りで構えを取った。吐き気を堪えながら焦点の合わぬ眼を細めて、照準を水槽の胸に定め、指の血が引くほど引き金を強く引き絞った。小さく乾いた音がしたあとに、水槽に細かな亀裂が入った。再度、引き金を引いた。別の場所に亀裂が入った。もう一度。まだ"彼"は挑発するように不敵な笑みを浮かべている。四発目を撃ち終わった瞬間、水槽は低い悲鳴をあげて割れた。しかし私はそれで満足しなかった。のみならずさらに怒りを膨らませた。
私にはその音が過剰演出に過ぎて聴こえ、あたかも死んだふりの道化の一つのように感じられたのだ。いうならば、子供の振るった模造刀で切られて倒れる大人の、あの仕草である。不快は怒りを伴っていよいよ強くなった。二度と私を侮ることがないように徹底的に痛めつけるために、次は暇なく立て続けに発射した。銀玉が水槽の残骸に反射して、ゴミで溢れた我が家の方々に散らばった。机の上の皿のカビの浮いたスープの上に銀玉が着水しては汚水があちこちに跳ね、床に転がるいつ食べたかわからぬ弁当の中身を蜂の巣にしてほじくりまわし、カーテンレールにかかった使い回して黄ばんだ下着のあちこちをぴしぴしと力なく叩いて転がった。
しばしして、我に帰った私は暗澹たる家の惨状にすら気を止めず、ただ"彼女"の遺骸のゆくえがどうしても気になった。
骨組みだけを残して散らばった硝子の破片を手で避けつつ、指を血だらけにしながら水槽の廃屋の底に埋もれた彼女の姿を探した。はたして彼女は居た。水槽の底で華奢な四肢を四方にぱらぱらと散らして、澄んだ瞳を持つ小さな頭と扇情的な身体は銀玉で潰れていた。私は血まみれの掌の中に彼女を包んだ。愛おしく思って、指の腹で彼女のふくよかなツルツルした腹を撫でた。彼女を口に近づけ、その口吻に口づけをした。

そして私は、彼女を食べた。

口に入れ咀嚼した途端に、舌の上が少しピリッと痛んでえずき、身体が拒絶を示した。なお咀嚼を続けると、プチプチという歯ごたえと共に魚介の内臓のような苦味と渋味と、そして彼方にジャリジャリとした土の味を感じた。とても食べられる味ではなかった。やっとのことで嚥下した時、私は何かを一つ達成した喜びに震えた。と同時に、虚ろな己の肉体の内側が彼女の肉でみるみる充足されゆく感覚があった。私はもう独りではないという快とあらゆる不快とが交じり、訳がわからなくなった。その日はその後すぐに気絶するように眠った。

翌朝、重たい頭を抱えて起き上がった私はいつもと同じ部屋の景色が全く違って見えた。床に散らばる銀玉のせいだけではなかった。
なにか繋がっているという感じ、私をとりまく全てが結託して私を包んでいるという感覚だった。それと関係しているのか、自分の手から硝煙の匂いがすることに気がついた。昨晩の銀玉鉄砲が思い出されたが、あれは火薬を使っているわけではない。
その匂いに我にかえって時計を見ると、出勤に乗る列車の時刻が迫っていた。シャツとスラックスを急いで着て、ハンガーラックに掛かったジャケットを手に取ったところで、動きを止めた。

「会社など知ったことか」

私は手に持ったジャケットを再びラックに掛けた後、扉に鍵もかけずに出ていった。下宿から一歩出たところで、外の景色を見て驚いた。日光や風も、大気も、街行く人も全てが私を歓迎してやまなかった。私は彼らに存在を赦されていた。自分は生まれ変わったのだと思った。

それからは洗っても落ちぬ硝煙の匂いのする手を振って、コンビニエンスストアへ行った。彼らに命じられるままにコンドームと酒を買った。次はホームセンターへ七輪と炭を買いにいった。初恋の相手とのデートのようにうきうきしてきた。そして日没間際の海岸までオンボロ車を転がした。沈み行く太陽が私を力強く祝福し、空の暗幕に浮かぶ月が私をたおやかに愛おしそうに見下ろしていた。
『水槽殺しの集うパーティーに出席しろ』私は彼らから招待された。
砂浜についた。皆は私を出迎えてくれた。
生まれてはじめて友達が出来た。みな人でなしだから気が合うことといったらなかった。


酒を片手に一通り楽しんだあとは、水槽殺しのみんなの死骸の上でポルカを踊った。夜空に浮かぶ雲を眺めた。酒を呷った。
そうこうするうち、車の中で七輪に火がついた。煙があがった。そして波の音に蜘蛛のきもちに思いをよせながら、私は助手席で深い眠りに落ちたのだった。


「おうい!! 罠にかかってるぞ!!大物じゃ」

明け方になったころ、車の座席に横たわる私の遺骸を村の漁師が担ぎ出した。

「食べ頃じゃ」

逆さに吊るされた私は、見事に村の女どもに解体された。村の連中は刺身となった私に舌鼓を打った。彼らは満腹をさすりながら私の骨を浜へ投げ捨て、また漁に出ていった。

蜘蛛が私のしゃれこうべから出てきて。雲を眺めた。

「キチガイめが。まんまと騙されよってからに」

蜘蛛は侮蔑を込めてひとしきり嘲笑い、私の頭蓋の中にたっぷり糞をひねりだして満足げな様子だった。それから彼女は卵を産むべく防風林の方へと去っていった。

彼女は私の気持ちなど、わかってはくれはしなかった。そして、私はまた独りになった。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?