記憶屋
それはたしか、或る暮れ方のことでした。
日本と呼ばれる国のどこかに、青い少年期の夢、人々の人生の栄華、数多の希望の骸を礎に、機械と合理の錆び色に塗りつぶされた街がありました。
街に住む人々は足元の骸はおろか、街の異質な雰囲気に気にとめる者はおりません。
と申しますのも、この時分そのような街はありふれていたのです。
市井の誰もが今日という一日があることを、さも当然といった様子で、漫然と泰然自若として過ごしていたのでした。
さて、そのとき街はちょうど街の様子を裏返したように分厚い深い灰色の雨雲の下に沈んでおりました。
マンホールからせり上がる下水の排泄臭と、その身の獣臭を隠す人々の香水に加え、秋雨の湿気は、大気に泥のような粘りけと重苦しさを与えました。
すると、突然に血管のように街に張り巡らされた味気ない小道の上へ、牡丹がぽっと開いて咲いたではありませんか。
その牡丹は川に浮かぶように小道をあちらこちら紆余曲折流れ、しまいには一軒のうらぶれた、とりたてて特徴のない商店の前へ止まりました。
花弁が内側に折り畳まれました。さてその内から浅黄色の着物の若い娘が姿を表したではありませんか。
そう、牡丹に見えたのは娘の差す唐笠だったのです。
開きっぱなしの戸口から店内へそろりと入りたる娘は傘を降り払って雨粒を落とし、戸口の脇へ立てかけ置きました。
きっと先客があったのでしょう、埃っぽく手入れの甘い鼠色の床の所々は、既にじわと雨露に黒く湿っておりました。
手狭な店内は、すぐに娘の濡れた衣と、そして建材に用いられる木々の腐った香りにむせ返るようになりました。
「―――ごめんくださいまし」
娘は濡れた着物の袖下を片の掌の中で絞りながら、薄暗い店内に呼びかけました。
しかし、娘の耳に返ってくるのは、屋根で勢いよく弾けて方々散らばる雨の音と、雨樋に集った水が、地面に叩きつけられて出る小気味よい調子のみでありました。
娘は店の誰かが己の来訪を悟るまでの間に間に、なんとはなしに、無人の店内をさっと見渡します。
床は近代風にコンクリートで設えてあり、その上に整然と置かれた書物机などの調度品をはじめ、病んだ樹木のように床から天井へ伸びる柱、漆喰で塗り固められた壁など、それらの内装は、いかにも古式ゆかしい商店の様相を濃く匂わせました。
しかし、殊に乗り掛かった時代の波から途中下車したこの街にあってそれは特筆すべきことではなく、別段娘もそれを見て珍しがる様子はありませんでした。
やがて娘が困ったように口をぱくぱくさせておりますと、娘の奥に見える扉が手前に向かって静かに開かれました。
その奥からは、いかにも商い人というような屈託のない風情の―――これもまた商店の店主にしては取り立てて特徴のない―――商売っ気のある、作為的微笑を頬に張り付けた中肉の男か現れました。
男を前にして娘は、何かに気が付いたようにあっと驚いてから、やがて雨音で満たされた店の中で俄かに息継ぎを始めるように、おずおずと話し始めました。
「・・・・・・あのう、ここは記憶屋さんでお間違ひないでせうか?
こちらのお店で記憶を売ることができると友人から聞き及び伺ったのですけれど・・・・・・」
娘は彼女の母がやるように、きわめて丁寧な、格式高い調子で男に問いました。
娘は自分の持ち物を質に入れてお金を頂くのが初めての経験だったのです。
それ故に、娘はこの場合の作法がいかがなものか弁えていなかったのです。
ですから、とにかく足元を見られて品物が本来の金額よりも低く見積もられぬよう、こうしてわざと慇懃な言葉遣いをしているのでした。
「ええ、いかにも。ここは記憶屋にごさんすよお嬢さん」
聡い男はそういった娘の初々しい雰囲気を汲み取って、普段他の客にするよりもゆっくりと極めて丁寧に語りかけました。
「よかった。・・・・・・それぢゃあ、お願いいたしますわ」
男の朗らかな態度に、娘はいささか緊張が解けた様子で云いました。
「ではどうぞ、そこの肘掛にお掛けんなってください。なに特殊な器具を使いまして、チョイとばかし記憶の方を拝見させてもらいますので」
店主に勧められるまま、娘は店の隅にうずくまったように佇む木製の暗褐色の椅子に細い身体を預けました。
男は娘の背後にさっとまわると、娘の銀杏髷に結った黒髪の小さな頭の上から、蛸のような青白い吸盤の沢山ついた、何やら怪しげなまあるい黒い頭巾をすっぽりとかぶせました。
頭巾の吸盤の一つ一つからは、銅色の武骨なケーブルが沢山伸び、それらは束になって男の操作する硯のように四角くて薄い小さな箱の尻に繋がっています。
娘は頭巾をかぶせられているあいだ、縁側で猫を枕に眠る時のような、何かじわじわとした温かみを後ろ頭に感じていました。
半刻ほど経った時、記憶屋は待ち時間に開いていた新聞をわきに置いて、機械の上部のメーターをのぞき込みました。
「......それで、だいたい見積りは以下程くらいになりますでしょうか?」
娘は、温かさからくる眠気をこらえながら男に尋ねました。
「ああ、お嬢さんこりャ上等です。50円にはなりますわな」
「まあ、そんなに・・・ですか。そんなに特別な記憶でもないようだけれど」
「いえいえ、お嬢さんくらいの歳でこの記憶は無二の価値がありますぜ。・・・・・・まア、余計な詮索はいたしませんが―――しかし若い女のこういう記憶はよく売れます。世の中には、好き者がおりますのでね」
「まあ、いったい何のために使うのかしら」
「さぁ、なんにござんしょ・・・・・・。 変態どもの考える事はわかりませんな。・・・・・・よし、それじゃあ、こちらの紙にお嬢さんの性別と、お名前とそれからお売りになる記憶の内容を書いてください。ああ、お名前のほうは偽名でも結構ですから」
「わかりました。・・・・・・お売りした記憶はさっぱりと頭から失くなるのでしたよね?」
「ええ、もう綺麗サッパリと無くなりまさぁ」
「さうですか。・・・・・ところで記憶屋さんは、どうしてこの商売をお始めに?」
「はは、そりゃぁ、忘れましたねェ。何しろその記憶は売って仕舞ったたもんでね」
「そうなんですの?」
「ええ。とにかく御銭が無くてね。生活に必要な記憶以外は一切合切売っちまうことにしてるんです。ここ一年で覚えてる日といったら、全部合わせてもせいぜい十二日ばかりですな。毎月やってくる借金の返済日ですよ。そんなワケですから、自分がどういった経緯でここでこうして商売をするようになったのか。いやそもそも自分が何のために借金をしているのか、さらには親や友人、恋人はいるのか、本当の自分がどこの誰なのか、全くわからんのです。今朝方、枕元に添えられてたメモを読んで、私としては、はじめてそのことに気がついたのです。無論、今日のことも明日になれば忘れるでしょう。おそらくそれを今までもずっと繰り返してきたのです」
「・・・書けましたわ」
「・・・・・・ああこれはどうも。すみませんな、少々無駄話が過ぎました。それでは忘却いたします。十、九、八……」
記憶屋が作業完了までの時間を、指折り数えておりますと、最後の一に差し掛かった時、娘が
「大変なんですのね。兄さまは」
とか細い声で呟きました。
「・・・いまなんと?」
記憶屋が聞き返した時には、娘が売りたいと願った記憶は既に機械に奪われておりました。
「いいえ、なんでもございません」
娘は先ほどとはうってかわって、落ち着いた様子で記憶屋に微笑みました。
それはまるで大悟に至った尼のような笑いでありました。
年頃の少女でありながら、その瞳には、その容には憂いのない聖者の如き純潔の輝きがあったのです。
「・・・・・・いま確かに、貴女は兄さまと仰った」
「さて、忘れて了いました」
娘は、否、いまや女となった彼女はゆるやかな身のこなしで、身支度を始めた。その姿に記憶屋は胸の奥底で何かが叫んでいるような、追い立てられてる感覚に見舞われました。
「・・・・・・それでは、わたくしはこれでお暇いたします。ごきげんよう」
「・・・・・・まいどあり」
女が店を出たあと、椅子に座った記憶屋は、窓の外の夕立の降る街の雑踏へ赤い唐笠をさして去ってゆく女の背中を、忘れてしまった懐かしさに傷つけられた者のように、ただ茫然と眺めておりました。
ごうと鳴る雨音が記憶屋を包みました。
それからながい時間が経ちました。
彼の視線は、赤い傘の残像が尾を引きながらゆっくりと机の上へ、娘が残した書類に移されました。
引き出しから算盤を取り出し、珠を弾き始めたころには、もうあの娘のことは頭の片隅に追いやられていました。
いまやそこには、利益を示すシステマチィックな数字と憂鬱な借金の勘定のみとが確かな重みをもって存在し、彼の淀んだ瞳の上へ連なるばかりでありました。
それから明日が来て、またその次が来て、それを無限に繰り返す日常の流転の中で、記憶屋は沢山の人々の悲劇や喜劇の記憶に囲まれながら、ただ無のまま忘却の孤独を過ごしました。
彼は己を不幸には思いませんでした。
自分が不幸であることすらも、明日には忘れてしまうのです。
そして、何より不幸であるという身の上は、永遠の忘却の身にあって、ただ他人の伝記を読むような他人事に思われたのです。
記憶屋はそれから沢山の人々の記憶を買い、売りましたが、例の娘に会うことはついぞありませんでした。
現代へと時移ろい、街の再開発が進んでゆくうちに、来し方に取り残された記憶屋は誰の記憶からも忘れられてしまいました。
しかし、記憶屋はあばら家となったその店でいまも待ち続けておりました。
返すべき借金も、貸し手が何十年も前に死んでいて、もはや記憶屋が記憶屋として商売をする必要がなくとも、老いた彼は震える手で算盤をはじいてその時を待ち続けています。
記憶を求めてやってくるお客と、薄汚れた記憶のメモ書きにある「兄さま」という言葉を発した、その誰かが、己を訪ねてやってくるその瞬間を。
完
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